神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コロポーン(7):クセノパネース(2)

真理は人間から覆い隠されており、人間は探求によって真理に少しずつ近づくことが出来る、と考えるクセノパネースは、当時の人々が神々について持っている概念についても、批判的な目を向けました。当時の人々が神々について想像することと言えば、それはホメーロスの「イーリアス」や「オデュッセイアー」に登場する神々の振舞い、そしてヘーシオドスが「神統記」や「仕事と日」などで歌った神々の振舞いでした。クセノパネースは彼らの歌う内容を攻撃します。

ホメロスとヘシオドスは人の世で破廉恥とされ非難の的とされるあらんかぎりのことを 神がみに行なわせた――
盗むこと、姦通すること、互いにだまし合うこと。


筑摩書房世界文学大系4 ギリシア思想家集」の「クセノパネス」 藤沢令夫訳より


特にホメーロスにおいては、クセノパネースのいう通りです。神々の王ゼウスは至高の力を背景に、多くの人間の女性と交わりをもっています。そしてその後、その女性の面倒を見ておればまだ許せるのですが、ほったらかしにすることも多々ありました。盗むことについてはあまり思いつきませんが、だまし合いは神々の間でよくありました。クセノパネースは無神論者ではありません。彼は神々の存在を信じていますが、神々とはホメーロスやヘーシオドスの物語る物語のような、不道徳な存在ではない、と主張します。

そして、当時の世間の人々が普通に思い浮かべる神々の姿についても、批判しました。

エチオピア人たちは自分たちの神がみが平たい鼻で色が黒いと主張し、
トラキア人たちは自分たちの神がみの目は青く髪が赤いと主張する。


同上

各民族は、自分たちの神々を自分たちに似た姿だと考えるが、そんなことは個々の民族の憶測に過ぎない、というわけです。では、クセノパネース自身は神々についてどのように考えていたのでしょうか?

神はただひとつ――神がみと人間どものうちで最も偉大であり、
その姿においても思惟においても 死すべき者どもに少しも似ていない。
・・・・
[神は]全体として見、全体として思惟し、全体として聞く。
・・・・
[神は]労することなく 心の想いによってすべてを揺りうごかす。
・・・・
[神は]つねに同じところにとどまっていてすこしも動かない。
あるときはここへ、あるときはかなたへと赴くことは 彼にふさわしくないのだ。


同上

これらの言葉からは、何か一神教的な雰囲気が伺われます。こういう思想が、ギリシア神話多神教的世界とクセノパネースの心の中でどのように調和していたのか、気になります。


さて、クセノパネースの生涯について話を戻します。

ヘラス(ギリシア)の土地をかなたこなたと
わが思いをさわがせ来ること すでに六十と七年。
生まれた日から数えれば、あのときまでの二十五年がこれに加わる――
私がこれらについて まちがいなく話すことができるとすれば。


同上

この詩から、クセノパネースは67年もの長い間、ギリシアの土地をさまよっていたことが分かります。さらに、コロポーンがペルシアによって陥落した時に25歳だったことも分かります。ということは、この詩を作った時クセノパネースは92歳という非常な高齢だったことになります。クセノパネースの老年は、故郷コロポーンにとっての激動の時期でした。71歳の時(BC 499年)イオーニアの反乱が始まります。コロポーンは、ミーレートスが始めたペルシアへの反乱に参加しました。しかし、反乱の途中でペルシアに屈服したようで、BC 494年のイオーニアとペルシアの決戦であるラデーの海戦の時には、イオーニア海軍の中にコロポーンの兵士たちはいませんでした。この反乱の知らせをクセノパネースはおそらくシケリア島か、イタリア半島のどこかで聞いたことでしょう。

イオーニアの反乱は鎮圧され、クセノパネースが80歳の時(BC 490年)、ペルシアはギリシア本土に侵攻します。そして最終的にイオーニアの諸都市をペルシアの支配から解放したのは、BC 479年のミュカレーの戦いと、それに続く小アジアでの一連の戦いでした。クセノパネースは、まだ生きていて91歳だったはずです。クセノパネースが自分の故郷コロポーンがペルシアの支配を脱した知らせを聞くことが出来た、と私は想像します。25歳の時に始まったコロポーンのペルシア支配が、ようやく終わったのでした。それからまもなくクセノパネースはその生涯を閉じたのでしょう。