神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コロポーン(6):クセノパネース(1)


哲学的な詩を書いて、ギリシア世界のあちこちを放浪したクセノパネースは、BC 570年頃コロポーンに生れました。彼が少年だった頃、コロポーンはリュディア王国の支配を受けるようになりました。幸いなことにリュディアの支配下においても小アジアギリシア人諸都市は繁栄を享受することが出来ました。そのためコロポーンも、しばらくは平和な日々を送ることが出来ました。しかしやがて、リュディアの東隣にあったメディア王国をペルシア王国が滅ぼす、という事件が起こります。これがコロポーンを動乱に巻き込むきっかけになりました。


リュディア王クロイソスはペルシアに戦いを挑みました。ペルシア王キューロスは、イオーニアの町々に対して使者を送り、リュディアに対して反乱するように要請しました。しかしイオーニアの町々はリュディアの方が勝利すると思ったのでこの要請を断りました。リュディア軍とペルシア軍は激突しましたが、勝敗が着きませんでした。リュディア王クロイソスは、翌日ペルシア側が攻撃してこなかったので、本拠地のサルディスに引き上げました。ところが、ペルシア側はリュディア軍のあとを追ってリュディア領内に入り、サルディスを包囲したのち、陥落させてしまったのでした。

あわててイオーニア諸都市はペルシア王キューロスに使者を送り、リュディアに服属していた時と同じ条件でペルシアに服属したい、と申し入れました。ペルシア王キューロスは、何を今更言うか、と使者に自分の怒りを伝えました。そのことを使者から聞いたイオーニアの各都市は、ペルシアがイオーニアのギリシア人都市を征服するつもりであることを悟りました。諸都市の代表たちはパンイオーニオン(全イオーニア神殿)に集まり、善後策を協議しました。しかし、団結するのが不得意なのが古代ギリシアの人々です。彼らは今まで常に隣国と何らかの争いをしていたのでした。結局、話はまとまらず、各都市が個別に対処することになり、コロポーンも自力でペルシア軍と戦ったのでした。BC 545年のことです。その結果、ペルシアに征服され、その支配を受けることになりました。


この時クセノパネースは25歳だったと言います。彼はコロポーンを脱出して、ギリシア人の住む土地を転々と渡り歩いたのでした。

嵐吹く冬の季節は 火のそばで
柔い寝椅子の上に横になり、腹を充たして、
豆をさかなに 甘い酒を飲みながら こんな話をするがよい――
「よき客人よ、あなたはどこのどなたかな? お年はいくつ?
あのメディア人がやってきたとき、あなたは幾つにおなりであった?


筑摩書房世界文学大系4 ギリシア思想家集」の「クセノパネス」 藤沢令夫訳より

ここでメディア人と言っているのは、ペルシア人のことです。

ヘラス(ギリシア)の土地をかなたこなたと
わが思いをさわがせ来ること すでに六十と七年。
生まれた日から数えれば、あのときまでの二十五年がこれに加わる――
私がこれらについて まちがいなく話すことができるとすれば。


同上


さて、クセノパネースはコロポーンを脱出してしばらくのち、やはりペルシアの支配を嫌って逃れてきたポーカイア人たちがイタリア半島のエレアを建設したことを、詩に詠んだという伝説があります。それから考えるとエレアにもしばらくの間、住んでいたようです。エレアには、こののち哲学者のパルメニデースが生れるのですが、ある説によれば、クセノパネースはパルメニデースの師匠だったということです。しかし、この説に反対する人々も多く、クセノパネースはエレアにはしばらく住んでいたものの、やがてそこから去っており、パルメニデースの師匠になることはなかったというのが、多数意見のようです。エレア建設はBC 540年とされていますので、クセノパネースが30歳の時になります。クセノパネースは、シチリア島(当時の言い方ではシケリア島)のイオーニア系の植民市である、ザンクレーやカタネーで暮らしていたようです。


彼は諸国をさまよいながら、どんな詩を作っていたのでしょうか? 残念ながら今も残っているのはわずかな断片だけです。その中で、人間の認識について歌ったものがあります。

まことに神がみは はじめからすべてを死すべき者どもに示しはしなかった。
人間は時とともに探求によってよりよきものを発見して行く。


同上

これは科学的な探求のことを述べている、と思われます。「真実と思われることについても探求を重ねて『よりよきものを発見して行く』べきだ。そうすることでよりよい知識を得ることが出来るのだ。なぜなら神々は『死すべき者ども(=人間)』に『はじめからすべてを』示しはしなかったから」ということなのでしょう。これは現代的な考え方だと思います。この考え方を推し進めていくと、人間は真実にどんどん近づくことが出来るが、真実に確実に到達したと断言することは出来ない(なぜなら、未来の探求において「よりよき」説明、言明が発見されるかもしれないから)、ということになると思います。次の断片は、そのことを述べているように思えます。

人の身で確かなことを見た者は誰もいないし、これから先も 知っている者は
誰もいないだろう――神がみについても、私の語るすべてのことについても。
かりにできるだけ完全にほんとうのことを言い当てたとしても
彼自身がそれを知っているわけではないのだ。
ただすべてにつけて思惑があるのみ。


同上