神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

キオス(12):オイノピデース

ミュカレーの戦いの1年後のBC 478年にデーロス同盟が結成されます。

アテーナイ人は、(中略)同盟諸国がアテーナイ側に要請したため、指揮権を(スパルタから)うけ継ぎ、その第一段階としてペルシア人追討のために、どの加盟国が軍資金、どの国が軍船を供給するべきかをとりきめた。その表向きの理由は、ペルシア王の領土に破壊行為を加え、報復する、ということであった。そのためにはじめてギリシア同盟財務官というアテーナイ人のための官職が設けられ、この職にある者たちが同盟年賦金を収納することとなった。年賦金というのは、同盟収入のうち貨幣で納入される部分の名称である。(中略)同盟財務局はデーロス島に設置され、加盟諸国の代表会議は同島の神殿において開催されることとなった。


トゥーキュディデース「戦史 巻1・96」より

上の引用には「ペルシア人追討のために、どの加盟国が軍資金、どの国が軍船を供給するべきかをとりきめた」とありますが、キオスは軍船を提供することを義務付けられました。その代わり同盟に年賦金を支払うことは免除されました。このように年賦金を免除されたのはほかにはミュティレーネーサモスなど少数でした。大多数のポリスは軍船を提供する代わりにデーロス同盟に年賦金を支払ったのです。この年賦金がやがてアテーナイの覇権の源になっていったのでした。こうしてアテーナイが他のポリスをはるかに越えて栄える時代がやってきました。その時代に生きたキオス人のひとりである「キオスのオイノピデース」をご紹介します。


後世「キオスのオイノピデース」と呼ばれることになるオイノピデースは、天文学者幾何学者でした。以下の記述は英語版Wikipediaの「オイノピデース」の項によります。


オイノピデースはBC 490年頃の生れと推定されています。そうすると1回目ペルシア戦争が起った頃に生れたことになります。2回目のペルシア戦争の時は10歳前後ということになるので、その時のキオス島からのペルシア人の撤退を同時代人として見聞したことと想像します。オイノピデースはエジプトに渡って、そこの幾人かの神殿の司祭から天文学幾何学の知識を学んだと言われています。のちに彼はアテーナイに移住したらしいのですが、詳しいことは分かっていません。たぶん、繁栄するアテーナイに自分の活躍の場を求めたのでしょう。そして当時のアテーナイはさまざまな知的人物が集まり、刺激し合う場だったのだと想像します。ところで、哲学者プラトーンの著作とされているが偽作の疑いの強い「恋敵」という対話篇には、天文学者としてのオイノピデースの名前が登場するそうです。



天文学者としてのオイノピデースの大きな業績は、天球における天の赤道黄道(天球上の太陽の軌道)の間の角度(上の図の「黄道傾斜角」)を測定したことです。これは現代の天文学の体系に即して考えれば、地軸(=地球の自転軸)の傾きを測定したことになります。オイノピデースはこれを24度と測定しました。現代の測定値(2000年1月1日12:00(UT)における値)は23度26分21.406秒ですので、24度というのは非常に良い値です。この角度によって1年の昼と夜の長さの変化を計算できる、つまり季節の変化を説明できるのですから、古代の天文学において重要な値であったと想像します。


また、オイノピデースは太陽の公転の周期(これは天動説で考えた場合の話です。実際には地球の公転の周期です)と月の公転の周期が一致する期間を計算し、59年としました。これは惜しいことに実際には約7日の差がありました。この周期が何の役に立つのかと言いますと、日食や月食の起る日を予言するのに役立ったということです。これについて思い出すのは、オイノピデースより100年以上前に生きたミーレートスタレースが、(ヘーロドトスの言によれば)日食の予言をした、という話です。

リュディアとメディアの間に戦争が起り5年に及んだが、(中略)6年目に入った時のことである。ある合戦の折、戦いのさなかに突然真昼から夜になってしまった。この時の日の転換は、ミレトスタレスが、現にその転換の起った年まで正確に挙げてイオニアの人々に預言していたことであった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、74 から

この頃にもすでに日食を予言する何らかの方法があったのでしょう。それをオイノピデースはもっと改良した、ということなのだと理解しました。オイノピデースがこの説を公表したのちBC 432年に、メトーンとエウクテーモーンが後世メトン周期と呼ばれる19年という説を発表し、こちらのほうがはるかに誤差が少なかった(わずか2時間強)のでオイノピデースの説は残念ながら顧みられなくなりました。


さて、オイノピデースは幾何学者でもあったのですが、当時の天文学を考えるとそれは当然のことのように思えます。上に述べた「黄道天の赤道の間の角度の測定」に幾何学の知識が必要であることは、容易に想像出来ます。さらに、そこで得られた24度という角度から、ある緯度の地点における、ある季節の1日の昼の長さを計算するには、球面の幾何学を駆使する必要がありそうなことが想像出来ます。こういう訳で、この時代のギリシア幾何学天文学の基礎理論という位置づけなのでした。


幾何学者としてのオイノピデースは、幾何学の作図にはコンパスと直定規以外を使うべきではない、という主張をしたそうです。これはのちにさまざまな幾何学者に難問を提供することになりました。その一つは

  • 円と同じ面積を持つ正方形を、コンパスと直定規を使って作図出来るか?

というものです。これについては、次にご紹介するキオスのヒポクラテースが、ある程度の成果を出しました。


またオイノピデースは、単なる問題と定理を区別したそうです。彼によれば定理とは、より高度な理論の基礎となるものでした。


彼の業績は後世から見れば未熟に見えるかもしれませんが、彼の業績がその後の科学の発展の土台になったことは否定できないと思います。今回オイノピデースのことを調べたことで、科学というのは無数とも思える人々の努力によって一歩一歩進んでいったのだ、という当たり前のことを、改めて私は実感しました。