ヒポクラテースはBC 470年頃に生れたキオス出身の幾何学者で、現代まで残っている業績のひとつはヒポクラテースの三日月 (Lune of Hippocrates)というものです。それは何かというと、下の図でピンク色で示した図形のことです。彼はこの図形の面積が、青色の三角形の面積に等しいことを証明しました。
この結果は、曲線だけで囲まれた図形の面積を求めたということで、当時の幾何学者たちに注目されました。というのは、当時、
- 円と同じ面積の正方形を、直定規とコンパスを使って作図すること
が未解決の問題として重要視されていたためです。現在ではこれが不可能であることが証明されています。しかし当時はそんなことを知りませんから、多くの幾何学者がこの問題に挑戦しました。そしてヒポクラテースの上の結果は、円と同じ面積の正方形を作ることの足掛かりになるように見えたために注目されたのでした。結局はこの結果を足掛かりにして円と同じ面積の正方形を作ることは不可能だったのですが、当時はそう見えた、ということです。
ヒポクラテースの生涯に関する情報はほとんどありません。斎藤憲氏の「キオスのヒポクラテスと論証数学の発明」には、こう書かれています。
ヒポクラテスの伝記的資料の検討に戻りましょう。実は資料と言えるようなものは二つしかありません。アリストテレスは『エウデモス倫理学』(1247a)で、一つのことに秀でているが、別のことで愚かな人の例として、ヒポクラテスをあげています。そこでは、キオスのヒポクラテスは、優れた数学者であったが、航海旅行中に、ビュザンティオンの徴税吏、正確には「五十分の一税徴税吏」に騙されて多額の金銭を失ったとされています。五十分の一税は関税のようなもので、その名のとおり五十分の一が税率なのですから、これでどうして多額の金銭を巻き上げられるのか了解に苦しみますが、だからこそ愚か者だということなのでしょうか。
さて一方、フィロポノスは『自然学』注釈で、ヒポクラテスは海賊に遭ってお金を失ったのだと述べます(CAG 16: 31.3)。このバージョンでは、ヒポクラテスは海賊を訴えるためにアテナイにやってきます。そしてそこで裁判を長いこと待つうちに、哲学者のところに通い、幾何学に熟達し、ついには円の求積を試みるまでになったということです。
斎藤憲氏の「キオスのヒポクラテスと論証数学の発明」より
一方、英語版Wikipediaの「キオスのヒポクラテース」の項には以下のように書かれています。
彼はキオス島で生まれ、元々は商人でした。 いくつかの不幸な出来事(彼は海賊または詐欺的な税関職員に略奪された)の後、彼はおそらく訴訟のためにアテーナイに行き、そこで主要な数学者になりました。
キオスでは、ヒポクラテスは数学者で天文学者のキオスのオイノピデースの弟子だったかもしれません。
私は、この2つの記事から、ヒポクラテースは裁判のためにアテーナイに来てから同郷のオイノピデースに出会い、その弟子になったのではないか、と想像しました。ヒポクラテースはオイノピデースより20歳ぐらい若かったようです。
ヒポクラテースはまた、幾何学の「原論」を著しました。これは幾何学の体系的な教科書でした。この後、何人もの幾何学者が「幾何学原論」を書き、やがてエウクレイデース(=ユークリッド)の「原論」にまで到達するのでした。その端緒を作ったことにヒポクラテースの「原論」の意義があります。
ヒポクラテースは天文学も研究しましたが、その成果はあまりよいものではなかったようです。