神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

タソス(11):その後のタソス

格闘家テアゲネースの晩年は、自身の華々しい活躍にもかかわらず、タソスの衰退期にあたっていました。タソスはペルシア戦争後、アテーナイを盟主とするデーロス同盟に参加したのですが、アテーナイは自身の勢力が増大するにつれてタソスの内政に干渉し始め、タソスの命綱であった金鉱を明け渡すように圧力をかけてきたのでした。このためタソスはアテーナイに対して反乱を起こしました。

その後しばらくして、タソス島市民がアテーナイから離反する事件が起った。紛争の原因はタソス人が対岸のトラーキア地方に所有していた通商基地と金脈の帰属権の問題であった。アテーナイ勢は船隊を率いてタソス島を攻め、海戦を挑んで叛乱軍を破り、さらに上陸作戦をおこなった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、100 から


これに対してタソスはスパルタに救援を乞いました。なお、下記の引用にある「ラケダイモーン」というのはスパルタを中心とする地方の名前です。「ラケダイモーン」をそのまま「スパルタ」と読み替えてもかまいません。また「アッティカ」というのはアテーナイを中心とする地方の名前です。

一方、タソス島市民は海陸の戦において敗れ、籠城の止むなきにいたって、ラケダイモーン人の干渉をもとめ、どうかアッティカ領に侵入して自分らの危急を救って貰いたい、と要請した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、101 から

スパルタはタソスを救援するためにアテーナイに侵攻しようとしました。ところが折悪しく、この時にスパルタに地震が発生しました。そしてそれを機に、今までスパルタ人に支配されていた周住民(ペリオイコイ)が反乱を起こし、スパルタは軍を派遣するどころではなくなってしまいました。

ラケダイモーン人は、アテーナイ側には内密に、救援を約しまさに実行にうつさんとしたとき、障害にうちあたった。この時地震がおこり、これに乗じたラケダイモーンの農奴らや、トゥーリア人アイタイア人など周住民らが叛乱をおこしてイトーメーの山塞に立籠ったためである。(中略)ともあれ、イトーメーにたて籠ったかれらを相手にラケダイモーン人は戦闘状態に入ってしまったので、タソス島の市民は籠城三年目に次の条件のもとにアテーナイ勢に降伏した。すなわち、城壁を取除くこと、船舶を譲渡すること、賠償金を査定通り即刻支払い、査定された年賦金を爾後納入すること、トラーキア本土の利権と金脈の所有権を放棄すること。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、101 から


こうしてタソスの繁栄の基盤であった金鉱はアテーナイの物になってしまい、タソスはアテーナイに隷属することになりました。この時タソスを攻略したアテーナイの将軍はキモーンといい、彼は、第一次ペルシア戦争でマラトーンの戦いで勝利を得たアテーナイの将軍ミルティアデースの息子でした。

その後アテーナイから離反したタソス島の人々を海戦で破って三十三隻の船を捕え、タソスの町を陥いれその対岸にある金鉱をアテーナイのものとしてタソスの人々が支配していた地方を占領した(前465年)。


プルターク英雄伝(七):キモーン」河野与一訳より


このキモーンはアテーナイのためにタソスの金鉱を手に入れたにも関わらず、アテーナイの政敵たちによって告訴されています。その理由は、もっと侵略しなかったから、というものでした。

 そこからは容易にマケドニアに侵入して広大な地域を分割させる機会があると思われたのにそれを実行しようとしなかったために、マケドニアアレクサンドロス(1世。初めペルシャに屈服していたが後にギリシャに好意を示しその文化を輸入してオリュンピア競技に出場することを許された。)から賄賂を取ってその言う事を聴いたと非難され、政敵が一致してキモーンを告訴した(前463年)。


プルターク英雄伝(七):キモーン」河野与一訳より


当時のアテーナイ人たちがいかに驕慢であったかを示す記事です。私たちはこの記事から、民主主義は好戦的になり得る、ということを教訓として読み取るべきなのかもしれません。


その後、タソスはペロポネーソス戦争において一度、アテーナイの支配を離脱してスパルタ側につきますが、またアテーナイ側に戻ります。さらにその後には、有名なアレクサンドロス大王の父親であるピリッポスによってマケドニア支配下に入ります。タソスはこのようにいろいろな支配者を迎えることになり、その独立は失われてしまいました。


私のタソスについての話はここで終わりにします。読んで下さり、ありがとうございます。