神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

デーロス島(10):デーロス同盟

次の話でもデーロス島は場所としての役割しか果たしていません。その話というのはペルシア戦争ののちアテーナイが組織したデーロス同盟の話です。
さて、エーゲ海の東岸、つまり小アジア側までのギリシア都市がペルシアの支配を離脱できるまでになったのは、スパルタとアテーナイの力が大きかったのでした。しかしスパルタはミュカレーの戦いでペルシアとの戦いは済んだと考えて、しばらくしてから手を引きました。そのため、アテーナイはギリシア連合軍の指揮権を手に入れました。

アテーナイ人は、(中略)指揮権をうけ継ぎ、その第一段階としてペルシア人追討のために、どの加盟国が軍資金、どの国が軍船を供給するべきかをとりきめた。その表向きの理由は、ペルシア王の領土に破壊行為を加え、報復する、ということであった。そのためにはじめてギリシア同盟財務官というアテーナイ人のための官職が設けられ、この職にある者たちが同盟年賦金を収納することとなった。年賦金というのは、同盟収入のうち貨幣で納入される部分の名称である。(中略)同盟財務局はデーロス島に設置され、加盟諸国の代表会議は同島の神殿において開催されることとなった。


トゥーキュディデース「戦史 巻1・96」より

こうして発足したのが後世、デーロス同盟の名前で呼ばれる同盟です。この同盟はBC 478年に結成され、それと同時にデーロス島に「デーロス人の神殿」と呼ばれるアポローンに捧げられた神殿の建設が始まります。そして同盟諸国から徴収された年賦金は、この神殿に付属する宝物庫に保管されました。本来、神殿への奉納物を保管する目的の宝物庫が、金庫の役割を果たすことになったのです。


 この同盟は時が経つにつれて、アテーナイが他国を支配する機構に変質していきました。

アテーナイ人は同盟諸国が義務を遂行することを杓子定規に要求し、このような重荷を担ったこともなく、また担う意志もない者たちにたいしては苛酷な強制を課し、同盟諸国を苦しめた・・・。(中略)アテーナイ人は盟主として一般的にいちじるしく不評判となってきていた。かれらは同盟軍を率いて遠征するときにも特権を行使するようになったので、ますます容易に同盟離叛国に強圧を加えることができるようになった。しかし事態を此処に至らしめた責任は同盟国自身の側に帰せられる。なぜならば、故国から離れることを嫌った多くの同盟諸国の市民らは、遠征軍に参加するのを躊躇し、賦課された軍船を供給する代りにこれに見合う年賦金の査定をうけて計上された費用を分担した。そのために、かれらが供給する資金を元にアテーナイ人はますます海軍を増強したが、同盟諸国側は、いざアテーナイから離叛しようとしても準備は不足し、戦闘訓練もおこなわれたことのない状態に陥っていたからである。



トゥーキュディデース「戦史 巻1・99」より

デーロス同盟を離脱しようとするポリスは同盟軍によって鎮圧され、次々にアテーナイの属国に落とされていきました。アテーナイの全盛期をもたらした優れた政治家ペリクレースは、同時に他国に対してはアテーナイの支配権を維持し強化する圧政者の顔も持っていました。彼は同盟の金庫をデーロス島からアテーナイに移してしまいました。この頃には同盟諸国もアテーナイのこの処置に抗議する気概もなくなっていました。同盟の金庫がアテーナイに移されると同時に「デーロス人の神殿」の建設もストップしてしまいました。その代わり、アテーナイでは(今でも有名な観光資源である)アクロポリスのパルテノーン神殿の建設が始まりました。もちろん、同盟の年賦金が流用されたのでした。ペリクレースの政敵がそのことを非難した際、ペリクレースは「我々は同盟国のために戦ってペルシア軍を防いだのであるから、それに対して費用の明細を示す義務はない」と答えたと伝えられています。
デーロス島は同盟の本部ですらなくなっていました。この状態でBC 431年、アテーナイを中心とするデーロス同盟は、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟とギリシア世界の覇権を争うペロポネーソス戦争に突入したのでした。