神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

レームノス島(ミュリーナとヘーパイスティア)(9):レームノス石碑

話は変わってずっと現代に近い1885年のこと、レームノス島のカミニアという町の近くにある教会の壁に奇妙な石碑が組み込まれているのが発見されました。その石碑には古代のギリシア文字で文章らしきものが刻まれていましたが、それはギリシア語ではなく、それまで知られていたどの言語でもなかったのです。
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(カミニアの位置)


この石碑に刻まれている文章の言語はレームノス語と呼ばれるようになりました。この言語は今に至るまで完全には解読されていませんが、1998年にドイツの言語学者ヘルムート・リックスによって突破口が開かれました。それは、この言語が古代イタリアに住んでいたエトルリア人の言語エトルリア語と関係がある、という説の提唱でした。残念ながらエトルリア語についても、いまだ完全な解読までは至っていません。しかし、いろいろな単語の意味は分かっています。


英語版のWikipedia「レームノス語」の項によれば、この2つの言語の親縁関係の証拠のひとつは、このレームノス石碑に出て来る「aviš sialχviš」というフレーズだそうです。これと似た「avils maχs śealχisc」というフレーズがエトルリア語の碑文に登場するそうです。そしてこのエトルリア語碑文の方はその意味が「65歳」であると分かっており、その成果を応用するとレームノス石碑の「aviš sialχviš」は「60歳」と読めるのだそうです。学者はこのレームノス石碑の文章を墓銘碑だと推定しています。この石碑の人物は槍を持っているので、兵士、あるいはもっと高位の軍人だったのかもしれません。


この言語が、レームノス島にいたとされるペラスゴイ人の言語であったかどうかは、判明していないようです。もし、この言語がペラスゴイ人のものだとすると、ペラスゴイ人はエトルリア人に近い民族だったということになります(ギリシア人はエトルリア人のことをテュルセニア人と呼んでいました)。


レームノス語がペラスゴイ人の言語であったかどうかを脇に置いても、レームノス島と北部イタリアという離れた場所に似た言語を話す人々がいたという事実は、いろいろなことを想像させます。もともとこの言語を話す人々はイタリアからギリシアエーゲ海にかけて広がっていたのであったが、そこにギリシア語を話す民族が北からやってきて、これらの人々を東と西に分断したのでしょうか? それとも、もともと東エーゲ海に住んでいた人々の一部が、ある時、イタリア目指して移動していったのでしょうか? この後者の考えは、「スミュルナ(2):リュディア人のウンブリア移住」で紹介した太古のリュディア人の一部が饑饉のために故地を離れて西のイタリアへ移住していった、という話や、有名なトロイア戦争トロイアが滅亡したあと、その生き残りたちが出航して最後にはイタリアのローマ付近に定住し、ローマ人の祖先になったという伝説を思い起こさせます。


このようにレームノス島にはギリシア人とは別の民族も住んでいたのでした。では、ギリシア人はいつからレームノス島に住むようになったのでしょうか? 英語版Wikipediaの「レームノス語」の項では、BC 510年のミルティアデースのレームノス島征服によって、島がギリシア化された、と記述していますが、私には疑問です。もし、そうだとすると、今までご紹介してきたように、多くの神話伝説がこの島をめぐって存在する事実が説明出来ないと私は思います。特にホーメロスの「イーリアス」においてレームノス島がギリシアに味方しているように記述されていることや、そこの王がイアーソーンの息子として描かれていることを私は重視したいと思います。一方、ヘーロドトスによれば、BC510年頃にペルシアがレームノス島を攻略した時にレームノス側で戦ったのはペラスゴイ人であるということなので、この頃レームノス島の主要な住民はペラスゴイ人であったようでもあります。レームノス島の住民は、ギリシア人→ペラスゴイ人→ギリシア人、と変遷してきたのでしょうか? 私にはよく分かりません。そして、レームノス語がペラスゴイ人の言語だったのかどうかも私には判断がつきません。