神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

スミュルナ(2):リュディア人のウンブリア移住

ヘーロドトスはその「歴史」のなかで、リュディアには3つの王朝があったと述べています。

  • 最初の王朝はアテュスの子リュドスが開いたもので、リュディア人の名はこのリュドスに由来すると述べます。その王朝が何年続いたのかをヘーロドトスは述べていません。
  • 次の王朝はヘーラクレースの子孫にあたるアグロンが開いたもので、22代505年間続いたといいます。ここでギリシア神話のヘーラクレースが登場していますが、おそらくはギリシア人から見るとヘーラクレースに似ていると思われるリュディア人の神、または英雄のことを言っているのだと思います。
  • 3番目の最後の王朝は、ギュゲスが開いたものでヘーロドトスはこの王朝代々の王の名前と事蹟を「歴史」の中で述べています。それによれば、ギュゲース、アルデュス、サデュアッテス、アリュアッテス、クロイソスというのが代々の王の名前です。

さて「(1):リュディア人のスミュルナ」でご紹介した話では、リュディア人の半数が住むべき土地を求めてスミュルナから出航したのは「マネスの子アテュスが王の時」だということでした。すると、この王は3番目の王朝に属していないことは明らかです。現代の歴史家は3番目の王朝の始祖ギュゲースを実在の人物と考えており、アッシリアの文書に登場する「ググ」と同一人物としています。そこからギュゲースの在位の年代がおぼろげながら分かり、それがBC 690年頃と推定されています。ですので「マネスの子アテュスが王の時」というのはBC 690年より以前のことになります。ギリシア人の小アジア植民はだいたいBC 10世紀頃と推定されるので、BC 690年ではまだ届かないのですが、かなり近づいてきます。


さらにもし、「マネスの子アテュス」が最初の王朝の始祖リュドスの父親アテュスと同一人物であるとすると、2番目の王朝が505年続いたということですので、BC 690年+505年=BC 1195年で、最初の王朝はBC 1195年以前に存在したことになります。そうだとすれば、これは確実にギリシア人到着より古いことになります。2番目の王朝が続いたのが505年というのが長すぎると考えて200年ぐらいと考えても、BC 890年でBC 9世紀初頭なので、最初の王朝の始祖の父親であるらしいアテュスはBC 10世紀以前になりそうです。私は以上のことから、リュディア人の半数が住むべき土地を求めてスミュルナから出航した時にはスミュルナにギリシア人はいなかっただろう、と推測しています。


さて、ここでこの物語に戻ります。

国を出る籤に当った組は、スミュルナに下って船を建造し、必要な家財道具一切を積み込み、食と土地を求めて出帆したが、多くの民族の国を過ぎてウンブリアの地に着き、ここに町を建てて住み付き今日に及ぶという。彼らは引率者の王子の名にちなんで、リュディア人という名称を変え、王子の名をとってテュルセニア人と呼ばれるようになったという。


ヘロドトス著 歴史 巻1、94 から

この移住組の人々は最終的にウンブリアに住み付いた、ということでした。このウンブリアというのはどこでしょうか? 実はウンブリアというのは今もイタリアの地名として存在します。ペルージャを首都とする州がウンブリア州です。

さらに、この移住組が移住先のウンブリアでテュルセニア人と呼ばれるようになった、とありますが、ヘーロドトスの頃(BC 5世紀)ギリシア人にとってテュルセニア人とはエトルリア人のことを指していました。エトルリア人というのはかつてウンブリア州の西隣のトスカーナ州に住んでいた民族です。ですので、移住組の人々がウンブリアに住み付いてテュルセニア人と呼ばれるようになった、というのは大まかに見ればつじつまの合う話です。BC 5世紀にギリシア人がウンブリアと認識していた土地の広がりが、今のウンブリア州とまったく同じだったとは、とても思えません。土地の位置の細かい相違は目をつぶっても構わないでしょう。


では、本当に太古に今のトルコにあたるリュディアからイタリア中部に移住した民族があったのでしょうか? これについては確実なことは分かりません。エトルリア語の碑文は現在まで残っているのですが、完全には解読されていません。解読されていませんが、インド・ヨーロッパ語族には属さない、というのが有力な説です。一方、リュディア語はインド・ヨーロッパ語族アナトリア語派に属するというのが定説なので、この2つの言語は親族関係にはないことになります。ですので、リュディア人の一部が移住してエトルリア人になったとは考えにくいです。