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その後、プリエーネーは東のほう、サルディスを首都として勢力を伸ばしてきたリュディア王国の侵略を受けます。リュディア王アルデュス(英語版のWikipediaの「リュディアのアルデュス」の項によれば、在位BC 644年~637年)がプリエーネーを占領しました。しかしその後、黒海東岸地域を通ってやってきた遊牧民族のキンメリア人が小アジアに侵入してリュディア王国を荒らし廻ったため、リュディア軍はプリエーネーから撤退したようです。これでプリエーネーは一息つくことが出来たかというと、今度はキンメリア人がプリエーネーを襲うことになりました。一時期、プリエーネーの人々は町を離れ、どこかに避難していたようです。
ギュゲスの後王位に即いた、ギュゲスの子アルデュスについて述べよう。このアルデュスはプリエネを占領、ミレトスに侵攻したが、彼がサルディスを支配している時期に、キンメリア人がスキュティア系遊牧民の圧迫で定住地を追われて、アジアの地に入り込み、サルディスをそのアクロポリスを除いてことごとく占領した。
ヘロドトス著 歴史 巻1、15 から
もっともキンメリア人は町から略奪するだけ略奪すると、遊牧民らしく別の場所へ去っていきました。
このアルデュス以前にもリュディア王ギュゲスがミーレートスに軍を進めています。ミーレートスはプリエーネーのすぐ近くですので、この時プリエーネーも侵略を受けたかもしれません。
さてこの(リュディア王)ギュゲスも、王位に即いてから、ミレトスとスミュルナに軍を進め、コロポンの市街を占領するということがあった・・・・
ヘロドトス著 歴史 巻1、14 から
ミーレートス、スミュルナ、コロポーンの位置を上の地図に示します。このように当時のリュディア王国は、エーゲ海東岸の広い地域に勢力を伸ばそうとしていました。アルデュスの孫にあたるリュディア王アリュアッテス(在位 BC 635年頃~585年頃)もプリエーネーを包囲したことがあります。この時にプリエーネー市民のビアスという者が知恵を働かせてこの包囲を解かせた、という話が、ディオゲネース・ラーエルティオスの「ギリシア哲学者列伝」に載っています。彼は賢人と呼ばれ、七賢人の一人とされています。
アリュアッテスがプリエネを攻囲していたとき、ビアスは二頭のラバを肥らせて、これを敵の陣営へ送り込んだ。アリュアッテスはこれを見て、プリエネの人たちの糧食の豊かさがもの言わぬ動物たちにまで及んでいることに驚いた。そこで彼は和議を結ぼうと考えて使者を送った。しかしビアスは砂の山をつくり、その上に穀物をふりまいて、これを使者に見せた。そこで使者からこの報告を受けたアリュアッテスは、ついにプリエネの人びとと平和条約を結んだのである。
しかし、この話はアリュアッテスとミーレートスの僭主トラシュブロスとの間の次の話に似ています。(詳しくは「ミーレートス(7):僭主トラシュブロス」参照)
さてアリュアッテスはデルポイからの報告を聞くと、神殿再建に要する期間だけミレトス側と講和を結びたいと思い、早速使者をミレトスに送った。こうして使者はミレトスにいったのであるが、(ミーレートスの僭主)トラシュブロスには万事詳細な情報が入っており、アリュアッテスの出方も判っていたので、次のような策略をたてた。町中にある限りの食料――彼自身の貯えも市民たちの手持ちも全部合せて広場へ集めさせ、市民に布告して、自分が合図を出したら町中のものが一斉に、互いに招(よ)びつ招(よ)ばれつで大いに飲みかつ食えといったのである。
トラシュブロスが布告を出してこんなことをやらせたのは、サルディスからの使者に山と積まれた食料と上機嫌で飲み食いしている市民の姿を見せ、それをアリュアッテスに報告させてやろう、という腹だったからである。
そしてそれがその思惑どおりになった。(中略)私のきく限りでは、和平は正にこのことによって成立したのである。アリュアッテスは、ミレトスでは極度の食料不足に悩み、人民は最悪の事態に追い込まれていると思っていたのであるが、ミレトスから帰還した使者の口から、予期していたのとは全く反対の報告を聞いたのであった。
ヘロドトス著 歴史 巻1、21~22 から
この時ミーレートスはリュディアと平和条約を結び、それは次代のリュディア王であるクロイソスの時も守られています。一方、プリエーネーのほうはクロイソスの時代にリュディアの支配下に入っていますので、おそらく上のビアスの話は、あとから作られた話のようです。
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