神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミーレートス(7):僭主トラシュブロス

ミーレートス:目次へ  ・前へ  ・次へ

キンメリア人とスキュタイ人がリュディアから追い出されたのち、リュディア王国はミーレートスへの侵攻を再開しました。この時のミーレートスの支配者はトラシュブロスでした。

*1がミレトスに軍を進め、これを攻囲した遣り方は次のようであった。田畑に穀物が実る頃を見計らい、軍勢を敵の領内に進め、横笛、竪琴、それに高音および低音の竪笛の調べに合わせて進軍する。ミレトスの領土内に着くと、農地にある小屋は壊しもせず、戸も引き破らずに、みなそのままに置いておく。ただ果樹と田畑の穀物は散々に荒らしておいては、引き上げる。というのは、ミレトス人が海上を制圧しているので、陸軍による封鎖は効果がなかったからである。リュディア王が家を破壊せぬ策をとったのは、ミレトス人が再び種子蒔きをして耕作ができるように、その手懸りを残してやっておく意味で、相手に耕作させて、自分が侵攻して言ったときに荒らす材料にこと欠かぬように、という目論見からであった。
 このような作戦によって、彼は11年間戦い続けたのであるが(中略)
 12年目になって、侵入軍が穀物を焼却しようとしたことから、次のような事件が起こった。すなわち穀物についた火は風に煽られ「アッセソスのアテナ」と呼ばれるアテナの神殿に燃え移り、神殿が焼け落ちたのである。その時は誰も気にとめなかったのであるが、その後軍隊がサルディスに引き上げた後、アリュアッテスが病に罹った。ところがこの病気が長びいたので王は、誰かの建言によったのか、あるいは自分の判断で病については神様に使いを出してうかがわせるのがよいと考えたのか、デルポイへ神託を伺う使者を送った。デルポイに着いた使者たちに向かってデルポイの巫女は、ミレトス地区のアッセソスでリュディア人が焼いたアテナの神殿を彼らが再建するまでは、神託を乞うてはやらぬといった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、17~19 から

 


「アッセソス」というのはミーレートスの近くの村の名前で、当時もそれほど大きな村ではなかったそうです。そこの神殿が戦争のとばっちりで焼けてしまったのですが小さな神殿ですので「その時は誰も気にとめなかった」そうです。しかし、このことが神の怒りにふれたらしく、リュディア王は病気になり、デルポイの神託はその焼け落ちた神殿の再建を命じたということです。
このことを当時のコリントスの支配者ペリアンドロスが知ることになりました。ペリアンドロスはミーレートスのトラシュブロスと親しい仲であったので、使者をミーレートスに送ってこのことをトラシュブロスに知らせました。

キュプセロスの子ペリアンドロスは当時ミレトスの独裁者であったトラシュブロスときわめて懇意な間柄にあったが、アリュアッテスに下された託宣のことを聞き知るや、トラシュブロスに使いをやってそのことを伝えてやった。予め知っていれば臨機の措置がとれるであろうというわけである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、20 から

 


なお、上の引用で「独裁者」という恐ろしげな称号が出てきますが、原語は「テュラノス」という言葉です。日本語では「独裁者」というふうに訳されることもありますが「僭主」と訳されることもあります。私には「王」と「僭主」の違いがいまひとつ分からないのですが、「王」が伝統的な掟によって正当化された存在であるのに対し、「僭主」はクーデタで権力を握った者のようです。また、従来の貴族階層に対抗して商工業に携わる人々の地位を上げる政策を取ったのが「僭主」のようです。ギリシアの数多くのポリス(都市国家)では、最初王政だったのが時とともに王権が制限されて少数の貴族が政権をとる貴族政になり、その後「僭主」が現れて僭主政になり、僭主が打倒されて民主政になったということです。もし、このことがミーレートスにも当てはまるとすれば、ミーレートスにも(おそらくはネーレウスの子孫が王となった)王政の時代や、その後の貴族政の時代、があったことでしょう。しかし、それについての記録は残っていなさそうです。


ところで、コリントスの支配者ペリアンドロスも独裁者、僭主、と呼ばれていました。

 

さてアリュアッテスはデルポイからの報告を聞くと、神殿再建に要する期間だけミレトス側と講和を結びたいと思い、早速使者をミレトスに送った。こうして使者はミレトスにいったのであるが、トラシュブロスには万事詳細な情報が入っており、アリュアッテスの出方も判っていたので、次のような策略をたてた。町中にある限りの食料――彼自身の貯えも市民たちの手持ちも全部合せて広場へ集めさせ、市民に布告して、自分が合図を出したら町中のものが一斉に、互いに招(よ)びつ招(よ)ばれつで大いに飲みかつ食えといったのである。
 トラシュブロスが布告を出してこんなことをやらせたのは、サルディスからの使者に山と積まれた食料と上機嫌で飲み食いしている市民の姿を見せ、それをアリュアッテスに報告させてやろう、という腹だったからである。
 そしてそれがその思惑どおりになった。(中略)私のきく限りでは、和平は正にこのことによって成立したのである。アリュアッテスは、ミレトスでは極度の食料不足に悩み、人民は最悪の事態に追い込まれていると思っていたのであるが、ミレトスから帰還した使者の口から、予期していたのとは全く反対の報告を聞いたのであった。その後両者の間に、相互に友好および同盟の関係を結ぶという条件で和議が成立し、アリュアッテスはアッセソスに、アテナの神殿を一社ならず二社も建立し、病も癒えたのであった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、21~22 から

 トラシュブロスには別の話も伝わっていますが、それは彼の冷酷さを伺わせるものです。

ペリアンドロスはトラシュブロスに使者を送り、どのようにすれば最も安全に政務を処理し、最もよく国を治めることができるか、と訊ねさせた。トラシュブロスはペリアンドロスの許から来た使者を町の外に連れ出して、作物の出来ている畑に入っていった。(中略)一緒に麦畑を通ってゆき、ほかの穂よりも目立って長く伸びた穂を見るごとに、ちぎって捨てていったので、とうとうこうして作物の一番よく伸びている出来のよい部分をすっかり傷(いた)めてしまった。そしてその畑を歩き終わると、忠告らしいことは一言もいわず、使者を帰したのだ。

 

 使者はコリントスに帰りペリアンドロスに、

トラシュブロスからはなにも忠告はなかったことをいい、トラシュブロスの許で見てきたことを話し

 た。それを聞いた

ペリアンドロスはトラシュブロスのしたことの意味を悟り、町の有力者を殺せとトラシュブロスが忠告したのだと理解した・・・。


ヘロドトス著 歴史 巻5、92 から

 同じような話はアリストテレースも、彼の著作「政治学」の中で伝えています。

ペリアンドロスは忠告を求めるために派遣された使者に対しては一言も答えないで、他の穂より秀でたのを抜き取って穀物畑を平らにした。使者はその為されていることの訳はわからなかったけれども、その出来事を報告したために、トラシュブロスはペリアンドロスのしたことから、抜ん出た人間を取り除かなければならないということを覚った、というのである


アリストテレス政治学」第3巻 第13章 より

 

 

ミーレートス:目次へ  ・前へ  ・次へ

*1:リュディア王、アリュアッテス