神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイゼーン(1):起源


トロイゼーンはエーゲ海の西側、つまりギリシア本土側にあり、アテーナイと同じようにサロニコス湾のほとりに位置しています。サロニコス湾のまん中にはアイギーナ島(現代名エギナ島)が浮かんでいますが、そのアイギーナ島をはさんでアテーナイの反対側にあるのがトロイゼーンです。トロイゼーンは神話においても、また歴史時代に入ってからもアテーナイとの関わりが深かったようです。


神話においては、アテーナイの英雄テーセウスが生れたのがトロイゼーンですし、テーセウスの息子ヒッポリュトスが愛の女神アプロディーテーの怒りにふれて死んだのもトロイゼーン近郊だということです。そのため、トロイゼーンにはヒッポリュトスの神殿があり、その崇拝が盛んでした。


(右:ヒッポリュトス。戦車の手綱にからまって引きずられて死んだという。)


また、歴史においては、BC 480年ペルシア軍がクセルクセース王に率いられてアテーナイを占領する直前、アテーナイの男たちが、自分の妻や子供たちを避難させたのがトロイゼーンでした。もっとも全員がトロイゼーンに避難したわけではないそうですが、多くの人々がトロイゼーンに避難しました。そして残った男たちは軍船に乗り込み、他のギリシア諸都市の軍船とともにアテーナイ沖でペルシア海軍を破ったのでした。


トロイゼーンの建設については、ピッテウスという人物がヒュペレイアとアンテアの両方を合併して新しい町にしたことで発足した、という伝説があります。そしてヒュペレイアかアンテアのどちらかの王であったピッテウスの兄トロイゼーンを記念して、町の名前にしたということです。トロイゼーンが死去したのちに、ピッテウスはこの合併を行なったのでした。しかし、この話の細部はよく分かりません。パウサニアースは、以下のように書いています。

彼らは、ヒュペレースとアンタスに至るまで、後の王について何も知りません。彼らはポセイドーンとアトラースの娘アルキュオネーの息子たちであると彼らは主張し、国にヒュペレイアとアンテアの町を設立したと付け加えました。しかし、アンタスの息子であるアイティオスは、父親と叔父の王国を受け継いで、都市の1つをポセイドニアと名付けました。 トロイゼーンとピッテウスがアイティオスのもとにやってきたとき、1人ではなく3人の王がいましたが、ペロプスの息子たちは力の均衡を楽しんでいました。
これがその証拠です。 トロイゼーンが死んだとき、ピッテウスは住民を集め、ヒュペレイアとアンテアの両方を新しい町にまとめました。彼はそれを自分の兄にちなんでトロイゼーンと名付けました。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.30.8~9より

これによれば、ヒュペレースという人がヒュペレイアという町を作り、その兄弟(たぶん弟)のアンタスがアンテアという町を作ったのでした。そして、アンタスの息子アイティオスが両方の町を相続して、この2つの町のどちらかにポセイドニアという名前をつけたのでした。この名前をつけたのは、アイティオスにとってその祖父が海の神ポセイドーンであったからなのでしょう。そのあとにトロイゼーンとピッテウスの兄弟がアイティオスのところにやってきて、(あつかましくも?)支配権を要求したようです。ところで、上の引用の中で「ペロプスの息子たち」と書かれているのはトロイゼーンとピッテウスの兄弟のことを指しています。彼らはペロプスの息子たちでした。神話によればペロプスは小アジアからギリシアにやってきてペロポネーソス半島の王になり、彼にちなんでこの半島はペロポネーソス(ペロプスの島)と呼ばれるようになったということです。さて、アイティオスとトロイゼーンとピッテウスの3名は王権を分かち合ったということですが、なぜアイティオスがそんなことを許したのかよく分かりません。それに、ヒュペレイアとアンテアという2つの町を3人で支配したという話も中途半端な感じがします。ともあれ、この2つの町は最終的にはピッテウスの手中に入りました。そして2つの町を合併させてトロイゼーンの町が出来たということです。


パウサニアースはのちにトロイゼーンと呼ばれる地方の、さらに古い伝説も書き残しています。それによれば、この地で最初に生れた人の名前はオルスということです。パウサニアースはそう書きながらも、オルスというのは名前からしエジプト人ではないか、という推測も書いています。おそらくエジプトの神ホルスのことを思い浮かべたのでしょう。それはともかく、このオルスの娘がレイスであり、このレイスと結婚したのが海の神ポセイドーンの子アルテポスでした。このアルテポスが王となり、その次はサロンが王になりました。アルテポスとサロンの間柄をパウサニアースは書いていません。サロンについては、彼がサロニコス湾の名前の由来になったと伝えられていますが、その伝説は楽しいものではありません。

さて、サロンは狩猟がとても好きでした。彼が牝鹿を追いかけていたとき、それが偶然海に飛び込み、彼はそれを追って飛び込みました。牝鹿は岸からどんどん泳ぎ、サロンは獲物を追いかけ、その熱意にあまり外洋まで出てしまいました。ここで彼の力は衰え、波に溺れてしまいました。遺体はポイバイアの潟のそばの女神アルテミスの林に漂着し、人びとは彼を神聖な囲いの中に埋葬し、彼にちなんで彼らはこの付近の海を(中略)サロニコスと名付けました。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.30.7より