神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コロポーン(9):モプソス

(1)」や「(2)」に登場したモプソス、つまり女預言者マントーの息子モプソスが、歴史上の人物である可能性がある、という記事が英語版のWikipediaの「モプソス」の項に載っていました。


それによれば、1946年から47年にかけてトルコの南部にあるカラテペというところで、フェニキア語とルウィ語の2つの言語で書かれた碑文が発見され、そこにモプソスと読めそうな人物名が見つかった、ということです。ルウィ語というのはヒッタイト語に近い言語で、どちらもインド・ヨーロッパ語族アナトリア語派に属しています。その碑文はBC 700年頃のものと推定されています。この碑文を建てた王の名前はアザティワダ(Azatiwada)といいます。彼は碑文の中で自分の属する王家を「モプソスの家」と呼んでいます。するとモプソスは、この王家の始祖ということになりそうです。ただし残念なことに、この碑文の出土したカラテペはコロポーンからかなり離れたところにあります。両者の間の距離は900kmぐらいはありそうです。コロポーン創建神話に登場するモプソスとは、直接には関係がなさそうです。


この碑文の英訳が英語版Wikipediaの「カラテペ・二言語碑文」の項に載っています。その中から「モプソスの家」が登場するあたりを引用します。

我は悪人や不逞な首領たちがいるすべての国境に強力な要塞を建設した。
我、アザティワダは、モプソスの家に従わなかったすべての人々を踏みにじった、
我はそこで要塞を破壊し、アダナワの人々が平和で快適に暮らせるように要塞を建設した。
(中略)
我はこの要塞を建設し、それをアザティワダヤと名付けた。
この要塞がアダナの諸平原とモプソスの家の防衛となるようにと、雷神と神々が我にそれを行なうことを命じ給うた。
我が治世の間、アダナの諸平原の領域には繫栄と平和があった。
我が治世の間、アダナワの人々の誰も殺されなかった。

このモプソスですが、フェニキア語の碑文ではm-p-šと書かれています。フェニキア文字では母音を書かないので、こんな書き方になっていますが、これをMopsos(モプソス)と推定することは出来そうです。一方、ルウィ語の碑文ではMuksa(ムクサ)と書かれていて、二番目の子音がpではなくkになっている点がフェニキア語版と大きく違っています。これについて英語版のWikipediaの「モプソス」の項では

is indicative of the evolution of Greek labiovelars and can hardly be explained otherwise.
ギリシア語の唇口蓋音の進化を示しており、さもなければほとんど説明出来ない。

と書かれているのですが、「ギリシア語の唇口蓋音の進化(the evolution of Greek labiovelars)」というのがどういうことなのか理解出来ていません。調べてみた結果、印欧祖語で\rm{k^w}と再建される音が、それに続く音によってはpまたはtに変化したという古代ギリシア語における音韻変化のことを言っているのではないか、と理解したのですが、間違っているかもしれません。


英語版のWikipediaの「モプソス」の項ではさらにさかのぼってBC 13世紀のボアズキョイ出土のヒッタイト語の粘土板に登場するMukšuš(ムクシュシ)とモプソスを関係づけています。しかし、英語版のWikipediaの「モプソス」の項を読んでもムクシュシがどのような人物だったのか、よく分かりませんでした。おそらくは、ムクシュシはヒッタイト王国の西側にあった小国の王だったのではないかと想像します。そして彼の名前は漠然と古代のギリシア人の記憶に残っていて、それを神話の中に取り入れたのかもしれません。カラテペの二言語碑文を建てたアザティワダは、本当に彼の子孫で、彼の祖先たちはBC13世紀からBC 700年の間にコロポーン付近からここまで移動してきたのかもしれません。この間にどのような出来事があったのか知りたいと思って、ヒッタイト王国が崩壊したのちのコロポーン付近の歴史を調べてみたのですが、あまり情報を得ることは出来ませんでした。調査を続けたいと思います。