神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コロポーン(8):その後のコロポーン

コロポーンはクセノパネースの最晩年にペルシアの支配を脱しましたが、今度はアテーナイの支配下に入ります。コロポーンはデーロス同盟に参加し、同盟からは負担金として年3タラントンを課せられました。一方、コロポーンの港町の役割だったノティオンも独立の都市と扱われてデーロス同盟に参加し、その負担金は年1/3タラントンでした。ここからコロポーンとノティオンの国力の差が分かります。


やがてペロポネーソス戦争が始まると、コロポーンとノティオンもそれに巻き込まれます。ペロポネーソス戦争はBC 431年からBC 404年まで続く長い戦争でしたが、BC 430年、コロポーンの高台の町がペルシア人イタマネス率いる非ギリシア人に占領されるという事件が起こっています。これはあるコロポーン人が宴会での喧嘩が元で、ペルシア人勢力を引き入れてしまったのでした。このため、コロポーン人の一部がノティオンに移住しました。ところがノティオンに移住したコロポーン人たちが2つの党派に分れてしまい、その一方が今度はアルカディア人が指揮を取る傭兵を呼び入れ、さらにはコロポーンの親ペルシア勢力の一部をも迎え入れたのでした。もうひとつの党派は、ノティオンを亡命することになりました。これがBC 427年のことで、この時アテーナイの将軍パケースはちょうどこのあたりにいました。パケースは前年に起きたミュティレーネーの反乱を鎮圧したところでしたが、その直後、スパルタから派遣された艦隊がミュティレーネーに接近しているという報を受けたのでした。この艦隊は反乱を支援するために派遣されたのですが間に合わず、ミュティレーネーはパケースに降伏してしまったのでした。パケースはスパルタ艦隊がエペソスに入港したと聞き、ミュティレーネーからエペソスに向いますが、スパルタ艦隊はエペソスを出航して、ペロポネーソス半島へ逃げ切りました。そこでパケースは追跡をあきらめ、ミュティレーネーに戻ることにしましたが、その途中ノティオンからコロポーン人の亡命者たちがやってきて、自分たちに味方して欲しいと頼んだのです。パケースはアルカディア人の指揮官を偽って和平会議に招待して監禁し、傭兵たちを攻撃して撃破し、さらには指揮官も殺してしまいました。そして親ペルシア派を除いたコロポーン人にノティオンを引き渡しました。のちにアテーナイから植民団が派遣され、ノティオンは準アテーナイ領になりました(トゥーキュディデース「戦史」3・33~34)。


ペロポネーソス戦争ではもう一度ノティオンの名前が登場します。上の事件から21年後のBC 406年、ノティオン沖でアテーナイの艦隊がスパルタの将軍リューサンドロス率いるスパルタ艦隊に敗北するという事件が起こります。しかし、この戦いではコロポーンやノティオンの人々はたいした役割を持っていないので、この話はここまでとします。


この頃コロポーン出身の詩人で文法学者だったアンティマコスが活躍しています。彼の人生についてはほとんど分かっていません。彼は学者として、ホメーロスの詩の校訂本を刊行しました。詩人としてはテーバイにまつわる物語を詠った叙事詩テーバイドを作っています。プルータルコスは、アンティマコスが詩のコンクールで敗れた時に、若い頃のプラトーンが慰めた、という逸話を書き留めています。

コロフォーンの人アンティマコスとヘーラクレイアのニーケートラトスとがリューサンドレイアの祭にリューサンドロスを讃える詩を作って競争した時、ニーケートラトスに冠を授けたので、アンティマコスは心を傷めてその詩を破ってしまった。その頃青年であったプラトーンは詩の技術においてアンティマコスに感嘆していたので、失敗を悲しんでいたこの詩人を慰めて元気を出させ、無知な人々にとって無知だということは、見えない人々にとって盲目だということと同じく、一つの病気であると言った。


プルータルコス著「リューサンドロス伝」18節 河野与一訳 より(ただし、漢字、かなづかいは、現代のものに改めました。)



BC 323年、アレクサンドロス大王が死去すると、彼の部下だった将軍たちが勢力争いをし、その結果、コロポーンを含む小アジア北部はリュシマコスというマケドニア出身の将軍の支配下になりました。コロポーンの東にあるエペソスの町はこの頃かつての港が河の土砂の堆積によって沼になってしまい、それがマラリア発生の原因になっていました。リュシマコスは町から2km離れたところに新しい町を作り、そこに住民を移動させることにしました。彼はそれを強引に進めたようです。かつての町より規模の大きい新しい町が出来たのですが、リュシマコスはさらにこの町の人口を増やそうと考え、エペソスの西にあったコロポーンと、さらにその西にあったレベドスの住民を強制的に移住させることにしました。そのためにリュシマコスはコロポーンとレベドスの町を破壊してしまったのでした。BC 292年のことです。コロポーン人は全員がリュシマコスの強制に従ったわけではなく、一部の人々はリュシマコスの軍と戦い、死んでいきました。


ローマが支配する時代になると、レベドスの町は復興したのですがコロポーンの町は復興出来ませんでした。そしてかつてはコロポーンの港町だったノティオンが代わりにコロポーンの名前で呼ばれるようになりました。そして、クラロスの聖域を持つ新しいコロポーンは、この聖域の名声の恩恵を受けたのでした。


以上で私のコロポーンについての話はほぼ終わりです。最後に神話時代に登場したモプソスについて、英語版のWikipediaで興味深い記事がでていましたので、それを紹介して終わりにします。