神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コロポーン(5):ミムネルモス

ミムネルモスはBC 7世紀のコロポーン出身の詩人です。ミムネルモスの生涯ははっきりしませんが、コロポーンで生まれ、やがてスミュルナに渡り、最後はスミュルナがリュディア軍に包囲される中で死んでいったようです。この時スミュルナは、リュディア王アリュアッテスの攻撃を受けて陥落しています。ミムネルモスにはコロポーン人としての意識と並行して、スミュルナ人としての意識もあったようです。


ネムルモスより約300年後の、エジプトのアレクサンドリアに集まったギリシア人の学者たちは、往古の詩人たちの詩集を編纂したのですが、ミネムルモスの分は2冊の本にしかなりませんでした。ステーシコロスという詩人の分は26冊もあったということです。ここから推測するに、ミネムルモスは寡作の詩人だったようです。この2冊の本のうちの1冊が「ナンノ」という名前を付けられました。これは彼がエレゲイア詩を歌う際に笛を吹いて伴奏した女性の名前であったと伝承は述べています。エレゲイア詩は通常、笛の伴奏つきで歌われていたのでした。本当かどうか分かりませんが、ナンノがミムネルモスの恋人だったという人もいます。もう1冊のほうは「スミュルネイス」と名付けられました。これは「スミュルナの歌」という意味でした。この本にはスミュルナの歴史に関する叙事詩が収録されていたようです。おそらく、この「スミュルネイス」の断片と思われる詩行がタフツ大学の「ペルセウス・デジタル・ライブラリ」の「エレゲイア詩とイアムボス詩、巻1」の「ミムネルモス」の項に載っていました(ただし、詩行に分けての表示はされていなかったです)。

ネーレイダイのピュロスの気高い町から我らが船に乗ってアジアの心地よい土地に来た時、我らは圧倒的な力で美しいコロポーンに居座る(レレゲス人の)痛ましい誇りを破壊し、そこから我らは木々に覆われた川のほとりから進み、天の助言によってアイオリスのスミュルナを獲得した。

レレゲス人というのは、ほぼカーリア人と同じで、コロポーンにいた原住民のことです。さて、コロポーン人たちは忘恩の裏切り行為によってスミュルナを得たはずですが、ミムネルモスの詩ではそれを「天の助言によってアイオリスのスミュルナを獲得した」と歌っており、罪悪感のかけらも感じさせません。

(上:ヘルモス川。ミムネルモスの名前の元になったと言われている。)


現代まで散逸せずに残ったミムネルモスの詩の1つを紹介します。若さを失った男の嘆きの歌です。

(愛の女神)黄金なすアプロディーテーが欠けているとしたら、何が人生であり、何が甘美なものであろう?
恋のかけひきと、やさしさと寝室の贈り物、そして男であれ女であれ
若さに、誰もが欲しがるその花盛りの全てを与えるそれら全てのもの、
それらのための、ひとときのないまま生きるよりか、
死ぬ方がずっとましだろう。だが、老年のわずらわしさが
やって来ると、美貌でさえ見苦しいものに変わり
心は、はてしない不安の下ですり減る。
そして日の光の中に、もはや喜びはなく、
子供たちの中に嫌悪が見出され、女たちの中に敬意のなさが見出される。
神は老年を私たち皆にとって、かくもつらいものに作られたのだ!

何とも苦い感じの歌です。この歌とは打って変わった雰囲気の、次のような歌も(断片しかありませんが)残っています。

彼はそのように弱々しくなく、心の高貴さに不足はなかった。
彼がヘルモスの平野でリュディアの騎兵の密集した隊列を敗走させ、彼らを槍で敗送させたのを見た私の年長者たちは言う。
彼が先陣で前進し、血なまぐさい戦争の中で、敵の苦い飛び道具に挑んだとき、
パラス・アテーナーが彼のような心の苛烈な力を咎めることは決してなかっただろう。
彼が太陽の光線のように進んだとき、
敵に直面して激しい戦いのわざをこれほどうまく行った人はいなかったので。

これはスミュルナの男たちを鼓舞するために歌った詩のようです。リュディアの圧力が高まる中で、ミムネルモスは昔(それは彼が生まれる前のことでしたが)スミュルナの兵士たちがリュディア王ギュゲースの軍を破ったヘルモス川のほとりの輝かしい勝利を歌ったのでした。この詩の「彼」が誰なのか分かりませんが、リュディア軍との戦いで活躍した人なのでしょう。彼の勇気を戦いの女神アテーナー咎めることはなかった、と詩人は歌っています。




(女神アテーナー


スミュルナがリュディア軍によって包囲された時、ミムネルモスはスミュルナの城壁の中にいたのかもしれません。彼は戦士として戦ったのでしょうか? 私はその時彼はすでに老年で、戦士としては戦えなかったと想像します。そしてスミュルナ陥落とともに命を落としたのだと想像します。