神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーロス(7):メラニッピデース

 


哲学者(メーロスの)ディアゴラスがアテーナイで活躍していた頃、もう一人のメーロス人もアテーナイで活躍していました。その人の名はラニッピデースといい、ディテュランボスというジャンルの歌を作詩し、演奏する人でした。つまり、詩人であり音楽家であったのです。古代では、詩人は同時に歌手、演奏家でもありました。


ディテュランボスというのは、酒の神ディオニューソスに捧げる舞踊で、その起源は宗教儀式にありました。日本語版のウィキペディアは以下のように説明しています。

ディテュランボス、酒神讃歌は、古代ギリシアの讃歌の一種。元々はディオニューソス神を称えるものだった。その熱狂的な性格はしばしばアポローン神への讃歌(パイアン)と対比される。アリストテレスによると、古代ギリシア劇の起源であるという。(中略)
ディテュランボスは最高50人の成人男子または少年からなるコロスによって歌われる。コロスは輪になって踊り、確かな証拠はないが、当初はサテュロスの扮装をしていたものと思われる。アウロスも持っていたかも知れない。ディテュランボスは基本的にディオニューソスの生涯に起きた事件を扱う。コロスのリーダーが主人公を演じ、抒情的なやりとりが彼と他のコロスとの間で繰り広げられる。


日本語版ウィキペディアの「ディテュランボス」の項より


ディオニューソス神)


ラニッピデースはディテュランボスの伝統的な形式を改変し、より音楽に重点を置いたものにしました。彼の新しい形式は多くの賛同者を得ましたが、古き音楽を愛する人々からは嫌われました。同時代のアテーナイの喜劇詩人ペレクラテースは、彼が古き音楽の厳格な構成の美しさを破壊したとして自作の喜劇の中で彼を非難しています。


ラニッピデースの生涯はほとんど分かっていません。メーロスのディアゴラスより若かったことと、のちにマケドニア王国のアルケラーオスの宮廷に住み、BC 412年頃そこで亡くなったことぐらいです。


このマケドニア王アルケラーオスは、マケドニアギリシア世界北方の後進国からその地位を引き上げた名君で、国制を改革し国力を増強するとともにギリシアの文化を取り入れることにも熱心に取り組みました。そのためにギリシアの当時の著名な文化人を自分の宮廷に招いています。悲劇詩人のエウリーピデースもBC 408年頃と思われますがマケドニアに移住してアルケラーオスの宮廷に出入りしています。そのほかには画家のゼウクシスも招かれました。


エウリーピデースはアテーナイの人ですが、彼が70過ぎの老年になってからマケドニアに移住したのは、単にアルケラーオス王の招きに応じたというだけのことではなく、ペロポネーソス戦争で荒廃していくアテーナイの政情や人心に心を痛めてのことと推測されています。メラニッピデースの場合は生まれた年がはっきりしないので何歳でアルケラーオスの宮廷に向ったのかよく分かりませんが、あるいは、BC 416年のアテーナイ軍によるメーロス占領とメーロスの成年男子全員処刑の報を聞いて、アテーナイに嫌気がさし、そのためにマケドニアに移住したのかもしれません。


もともとメラニッピデースがメーロス島からアテーナイにやってきたのはなぜでしょうか? やはり、その頃のアテーナイは繁栄していて文化の花が開き、ギリシア各地から才能のある若者が集まってきていたからでしょう。きっとメラニッピデースも若き日々にアテーナイにあこがれてやってきたに違いありません。そのあこがれていたアテーナイがBC 431年からBC 404年まで続いたペロポネーソス戦争の過程で、どんどん衆愚政治に傾いていき、中立を保っていた故郷メーロスを理不尽にも滅ぼして、自分たちの植民地にするのを見て、幻滅したというのは充分想像できます。


さてマケドニアの宮廷で生を終えたメラニッピデースですが、後世の(といっても古代ローマですが)評判はよく、AD 1世紀のプルータルコスはメラニッピデースをシモーニデースやエウリーピデースとともに音楽の巨匠たちの中に含めていたということです。