神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーロス(6):メーロスのディアゴラス

 



メーロス島がアテーナイ軍によって包囲された頃、アテーナイで活躍していた一人のメーロス人がいました。彼の名はディアゴラスといい、最初は詩人だったのですが、のちに哲学者になりました。彼は古代では珍しいことに無神論者」と呼ばれて非難されていました。しかし「無神論者」という言葉は往々にして非難のために使うレッテルであったので、本当に彼が無神論者だったのかどうかは分かりません。


BC 1世紀のローマの政治家、弁論家、著作家であったキケロがディアゴラスについて、こんな話を伝えているそうです。

ある時、ディアゴラスの友人はディアゴラスに神々の存在を納得してもらいたくて、神殿に彼を連れて行き、奉納された絵画の数々を見せたということです。それらの絵画は、神々に祈願したことによって海での嵐から無事に帰ってくることが出来た人々が奉納したものでした。友人はディアゴラスに「見てごらんよ。神々に祈願したことで救われた人々がこんなにいるのだよ。だから神々が存在しないなどと言わないでくれよ。」と言いました。それに対してディアゴラスは「だって、無事に帰ってこられなかった人々は絵を奉納出来ないじゃないか」と言って友人の論に反駁したのでした。こういう冷静さが同時代の人々に嫌われたのでしょう。
 キケロが伝えるもうひとつの話ではご利益の話ではなく、不信心の罰に関する話です。ある時ディアゴラスは船に乗ったのですが、あいにく嵐に遇ってしまいました。すると、船乗りは、こう言って嘆きました。「ああ、こんな不信心者を船に乗せたばっかりに、神々の怒りに触れてしまった。」 それを聞いたディアゴラスは言いました。「じゃあ、この嵐の中にいるあの船にも、別のディアゴラスが乗っているというのかい。」


 このようにディアゴラスは神々の御利益も祟りも容易に信じなかったのです。次の話はウソくさいのですが、ディアゴラスが神々をないがしろにした例として伝えられています。彼は、木で出来た英雄神ヘーラクレースの神像を細かく切って燃料にして料理を作った、というのです。そして伝説にあるヘーラクレースの12の功業にちなんで、これをヘーラクレースの13番目の功業と呼んだそうです。きっとこれは後世の人々が非難のために作った話でしょう。


 BC 415年にアテーナイでディアゴラスは、不敬虔の罪で告発されます。そのため彼はアテーナイから逃げ出します。その後のことはよく分からないのですが、最後はコリントスで生涯を終えた、ということです。


 ディアゴラスは一方で、政治家とも深い付き合いがあったようです。それはアテーナイの政治家ではないのですが、例えばマンティネイアの政治家ニコドロスとの交流があります。ニコドロスはマンティネイアの立法家かつ政治家として称えられていた人でした。そうだとすると、ディアゴラスは変人なのではなく、世情に通じた人だったのでしょう。


 そういう目で、彼が告発されたという事件を見てみますと、別の面が見えてきます。彼が告発されたBC 415年というのは、BC 416年のメーロス島の陥落と処刑の1年後です。メーロス島出身の彼は当然、このようなアテーナイ政府のやり方に反感を持っていたことでしょう。さらに彼は政治家とも交流があったとすれば、時のアテーナイ政府に対して具体的な抗議活動を行ったのかもしれません。そして、それをよく思わないアテーナイ人の誰かが彼を不敬虔の罪で告発したということも十分考えられます。


また、彼はアテーナイ国家が祭る神々に対して怒っていたという伝承もあります。これが無神論者という悪名につながったのですが、実際には彼は無神論者ではなく、神々の加護があると主張するアテーナイ政府に腹を立てていたのではないのでしょうか? アテーナイ人たちは彼の故郷メーロスの人々に非人道的な扱いをしたのでした。そのようなアテーナイ人たちを加護すると称する神々が、アテーナイ政府が主張するように本当にいるとするならば、そんなものはメーロス人である彼にとって神々の名に値しないのだと、彼は主張したのではないのでしょうか? そしてそのような彼の怒りをアテーナイの一部の人々が半ば意識的に曲解して、彼を「無神論者」と呼んで告発したのではないでしょうか?


ディアゴラスよりも16年のち、哲学者ソークラテースもやはり不敬虔の罪で告発されています。この不敬虔の罪での告発というのは、当時のアテーナイでは、気に入らない人を排除するのに便利なやり方だったのでしょう。アテーナイ人だったソークラテースは「悪法も法である」と言って、逃亡を良しとせず刑死しましたが、アテーナイ人ではないディアゴラスにはそんな義務はありません。彼は逃亡しました。逃亡したディアゴラスに対してアテーナイ政府は懸賞金を掛けました。生きてつかまえても、殺してしまっても懸賞金は支払われることになっていたというのですから、恐ろしいことです。彼は当時の強国アテーナイの眼を逃れて、諸国をさまよったようです。そしてアテーナイ人につかまることなく、生を終えたのでした。