神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーロス(8):ミロのヴィーナス

メーロスは、BC 416年のアテーナイ軍によるメーロス島占領の際、成人男子全員が処刑され、女性と子供は奴隷にされる、というむごい目に会いました。そしてメーロス島にはアテーナイ市民による入植者500名がやってきました。その後、ペロポネーソス戦争末期のBC 405年、スパルタの将軍リューサンドロスはアテーナイ人入植者をメーロス島から追放し、かつてのメーロス人の生き残りに島の支配権を取り戻させました。しかし、メーロスは独立を失い、スパルタの支配の下に入りました。その後、スパルタの覇権も破れ、新興のマケドニア王国のフィリップ2世によってギリシア本土の大部分が押さえられると、メーロスもマケドニア王国の支配下になりました。しかし、マケドニアの支配もBC 197年ローマにとって代わられます。



ミロのヴィーナスが作られたのは、メーロスがローマの支配下に入った後のBC 130年~BC 100年の間と推定されています。作者は「アンティオキアのアレクサンドロス」であるとされています。そのことはミロのヴィーナスの像の台座に刻まれた文から分かりました。この頃にはポリス(=都市国家)の独立というのは、過去のものになっていました。


「アンティオキアのアレクサンドロス」の生涯についてですが、「アンティオキアの」というぐらいですから、おそらく「アンティオキア」で生まれたのでしょう。しかしなぜか、英語版のWikipediaにも日本語版のWikipediaにも彼の出身地については書かれていません。アンティオキアというのは現在のトルコのアンタキアという都市になります。この頃はセレウコス朝シリア王国の首都でした。アレクサンドロスの生涯はよく分かっていません。彼は遍歴しながら、注文を受けて製作する彫刻家だったようです。また、音楽家でもあったようで、ギリシア本土のテスピアイというところの碑文には彼が作曲と歌唱のコンテストで優勝したことが書かれているそうです。ところで彼がミロのヴィーナスを製作したいきさつは分かっていないようです。


ミロのヴィーナスは、1820年4月8日に、メーロスの古代遺跡の中からギリシア人の農民ヨルゴス・ケンドロタスによって発見された、と伝えられています。もっとも第一発見者については、ヨルゴス・ボットニスと彼の息子のアントニオであった、という説や、ヨルゴス・ケンドロタスの父親のテオドロス・ケンドロタスである、という説もあります。


さて、この頃たまたまフランスの海軍の船がエーゲ海の島々で海洋調査をしていました。メーロス島を含むエーゲ海の島々は当時、オスマントルコ帝国領でした。オスマントルコ領の海域でなぜフランスの船が海洋調査なぞ出来たのか、私は当時の歴史に疎くてよく分かりません。それだけ当時のオスマントルコは弱体化していたということなのでしょうか? それはともかく、その船がメーロス島の近くで一時碇泊している時に、メーロス島にいたフランスの代表(この「フランス代表」の存在も気になります)が、乗船していたデュモン・デュルヴィルという海軍士官に、この彫像の発見のことを知らせます。このデュモン・デュルヴィルという人物は、後年、南太平洋、オーストラリア、ニュージーランド、南極を探検した探検家になるのですが、まだこの時は彼の航海歴の始めの方に当っていました。彼は、古典古代の言語であるラテン語ギリシア語を習得し、さらに別の6か国語を話すことが出来、植物学、昆虫学、天文学にも通じているという多才な人物でした。彼はこの像の価値をすぐに理解し、これを手に入れようとします。しかしこの船の艦長は、その像が大きくて船の中にそれを置くスペースがない、と言って反対しました。そのため、デュモン・デュルヴィルはイスタンブールにいる駐トルコフランス大使に手紙を書き、その後、自身もイスタンブールに赴き、フランス大使に、この彫像を入手するように説得することに成功したのでした。


一方、ミロのヴィーナスを発見した農夫は、この彫像を司祭のマカリオ・ヴェルギスという人物に売り払ってしまいました。この司祭は、これをイスタンブールにいる「スルタンの通訳者」(この「スルタンの通訳者」という役職がどのくらい高位の役職なのか、私には分かりません)への贈り物にしようと考えていました。この彫像がイスタンブール行きの船にまさに積み込まれようとしている時に、フランス大使の代理がメーロス島に駈けつけて、それを取りやめさせ(どうやって説得したのか)フランスがそれを手に入れることを納得させたのでした。こうしてミロのヴィーナスはルーヴル美術館に所蔵されることになったのでした。


ちょうどこの頃のフランスは、ナポレオンが没落して王政復古した時期に当っており、ルーヴル美術館は、ナポレオンがヨーロッパ各地から強奪してルーヴルに収めてきた美術品を、元の所有国に返還しなければならなくなっていました。それらの収蔵品を返還したためにルーヴルは目玉になる収蔵品に欠けている状況でした。そんなわけで、ルーヴルはこのミロのヴィーナスを新たな目玉収蔵品として宣伝し、こうしてミロのヴィーナスは有名になったということです。


それにしてもミロのヴィーナスが、当時のメーロスについて語ってくれることはわずかです。もう少し、この像が作られた経緯とか知りたいと思いました。この像はメーロス市政府が発注したのでしょうか? それともある裕福な個人が発注したのでしょうか? あるいは何かの贈り物としてメーロス市にやってきたのでしょうか? 調べても情報を得ること出来ませんでした。


さて、私のメーロス島に関する話はこれで終わりです。読んで下さり、ありがとうございます。