神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アイギーナ(12):最終回。その後のアイギーナ

前回の「(11):衰退」で、アイギーナの話は終わりにしようと思っていたのですが、そうしたところどうも落ち着きがよくないと感じてきました。どこが変なのか考えてみたところ、現代もアイギーナ(現代名エギナ)の町は立派に存在するのに、前回でまるでアイギーナが滅亡したかのように書いて終わりにしたことが変なのだ、ということに思い当たりました。そこでその後のアイギーナについても書こうと思ったのですが、これがなかなか難しそうです。
ペロポネーソス戦争後、ローマ帝国支配下にある時代までの歴史(私はそれ以降の歴史についてはあまり興味が持てないでいます)について英語版Wikipediaの「アイギーナ」の項目の記述では、「アイギーナと残りのギリシアは、マケドニア(BC 322〜299年)、アカイア同盟(BC 229〜211)、アイトリア同盟(BC 211〜210年)、ペルガモンのアッタロス(BC 210〜133年)、ローマ(BC 133 年以降)によって次々に支配された。」とあって、その次にはAD 1世紀に、コリントスのシナゴグの支配者で、のちにキリスト教徒になって使徒パウロから洗礼を受けたクリスプスによって、アイギーナにキリスト教の共同体が設立された、という伝説の紹介に移っています。ここから察するにアイギーナの町はローマ帝国支配下で存続していたのですが、大した歴史的事件の舞台にはならなかったようです。


一方、近代まで飛びますと、1821年からのギリシア独立戦争においてアイギーナが「短い間、ギリシア革命当局の行政中心になった」という記事があります。また、ギリシア独立運動の中心人物である「イオニアス・カポディストリアス」の項には「1828年1月7日にカポディストリアスはナフプリオンに上陸し、1828年1月8日にアイギーナ島に到着した。」という記述があります。ということは、この頃にはアイギーナは重要都市に返り咲いていたことになります。
そこで、その間の歴史を書こうとするといろいろなことがあったらしく、私には書けそうもありません。たとえば、12世紀にはアイギーナ島は海賊の根城になっていたそうです。なんという転変でしょう。


ところでヘーロドトスは、アイギーナの全住民追放という事件を、女神デーメーテールの神殿をアイギーナ人が汚したのことの応報である、と説明しています。それはニコドロモスがアテーナイと組んでアイギーナ市内で反乱を試みた事件に関わる話です。

さてアイギナの資産家の一党はニコドロモスとともに彼らに反旗をひるがえした民衆の鎮圧に成功したが、鎮圧後反徒を市外に曳き出して処刑した。このことから彼らの身に穢れがかかることとなり、彼らはこの穢れを犠牲を供えることによって祓おうとしたがその甲斐なく、女神のご機嫌が直る前に島を追われる憂目に遭わなければならなかった。その経緯はこうである。――反乱を起した民衆の七百人を生捕りにして市外に曳き出し処刑したのであったが、その内の一人が縛めを解いて脱走し、デメテル・テスモポロスの神殿の入口のあたりに難を避け、扉の把手をしっかと握ってはなれなかった。追手の者たちは彼を引き離そうとしたがそれができぬと見ると、彼の両手を切り離しやっとのことで連れ去ったのであったが、切られた両の手は扉の把手に附いたまま離れなかった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、91 から

しかし、これはあまりにも酷な見方ではないでしょうか? 貴族派がニコドロモスを中心とする民衆派を弾圧したやり方がむごかったとしても、そのためにアイギーナの全住民が罰を受けなければならないというのは、道理に合わない話です。こういう話を読むと、アイギーナのために何か弁じなければならない、という思いが湧きます。


アイギーナはエーゲ海の東で始まった文明の発達を、エーゲ海の西側でいち早く吸収し、レーラントス戦争をきっかけに、アテーナイより先にエーゲ海の有力海上勢力として成長したのでした。そしてペルシアとの交易で盛期を迎えたものの、やがてペルシアとの全面戦争によって意に反してギリシア側の主力としてペルシアと戦うことになり、その功績第一とギリシア諸国に認められながらも、衰退せざるを得なかった町でした。そしてアテーナイの隆盛の犠牲になってその栄光を失ったのでした。しかし、その後の長い歴史の中で町は復活し、現在も観光でにぎわう町として存続しているのでした。
以上で私のアイギーナの物語を終えます。