神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

アイギーナ(11):衰退

サラミースの海戦ののち、アテーナイはテミストクレースの主導により、さらに海軍力を高めていきスパルタとの間に緊張が走りますが、自分の功績を繰り返し誇示するテミストクレースがアテーナイ民衆に嫌われ、陶片追放に会います。テミストクレースに代わってアテーナイの主導権を得たのは穏健貴族派のキモンでした。キモンはスパルタとの協調政策をとり、そのおかげでスパルタと同盟関係にあるアイギーナもアテーナイと友好関係にありました。しかし、アイギーナはサラミースののちフェニキアなどとの交易を失い、経済は低迷していました。サラミースの海戦ののち20年間平和は続きました。しかしBC 461年にキモンが陶片追放されると民衆派のペリクレースが政策を転換し、ペロポネーソス半島のコリントスエピダウロスなどと戦いを始めました。

アテーナイ人は船隊を率いてハリエイスにむかい、この地に上陸作成をおこない、コリントスエピダウロス両国勢を相手に戦ったが、勝利はコリントス勢に上った。その後、ケクリュパレイア島沖合でペロポネーソス勢船隊と海戦をおこない、アテーナイ側が勝利を得た。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、105 から

このケクリュパレイア島というのはアイギーナのすぐそばにある小島でした。自分の目と鼻の先でアテーナイ海軍が勝利を収めたのを見たアイギーナはアテーナイの勢力伸長を警戒し、他のペロポネーソス諸国の艦隊を自国艦隊に組み入れてアテーナイに戦いを挑みました。BC 459年のことです。

その後アテーナイとアイギーナの間にも戦争が生じ、アイギーナ島沖合で両国海軍の大海戦がおこなわれ、両側の同盟諸国軍もこれに参加した。アテーナイ側は勝ち、しかも敵船七十艘を捕獲すると、アイギーナ島に上陸して敵の城市を包囲攻撃しはじめた。アテーナイ側の指揮官は、ストロイボスの子レオークラテースであった。これをみてペロポネーソス同盟側はアイギーナ市民救援を目的に、先にコリントスエピダウロス両国勢の配下にあった傭兵の重装兵三百をアイギーナ島に渡らせ、他方コリントス勢はゲラネイアの丘陵を占拠し、同盟諸軍を率いてメガラ領内に攻め降りた。かれらは、アテーナイが多数の兵力をアイギーナに送り、他方またエジプトにも進駐している現在、さらにメガラに援軍を繰出すことは出来ないだろう。若しアテーナイが援軍を出すとすれば、アイギーナの囲みを解いてその兵員を移動させねばなるまい、と考えたからである。しかしアテーナイ人はアイギーナ攻撃中の軍勢を移動させず、そのかわりに、本国に残っていた最年長と最年少の兵員を動員し、ミュローニデースの指揮下にメガラに駆けつけた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、105 から

アテーナイ軍によるアイギーナは包囲は3年も続きました。BC 456年、アイギーナはアテーナイに降伏することになりました。アイギーナは自国の海軍を解体され、デーロス同盟に加入しアテーナイに年賦金を支払うことを強要されました。

アイギーナ市民もアテーナイ人の要求通りに降伏し、城壁を取壊し、船舶を譲渡し、爾後査定どおりの年賦金を支払うこととなった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、108 から

もはやアイギーナはアテーナイの従属国になってしまったのでした。BC 445年にアテーナイとスパルタの間に30年の和約が締結されると、アテーナイはアイギーナの自治を復活させると約束しました。しかし実際には復活されませんでした。


その後、BC 432年、ペロポネーソス側とアテーナイの間に緊張が高まり、ポテイダイアというコリントスの植民市をアテーナイが包囲するという事態になりました。この時、コリントスがペロポネーソス同盟諸国にスパルタに集合して会議を持つように提唱したので、その会議にアイギーナもひそかに使者を送りました。

しかしポテイダイアの籠城を本国のコリントス人は手をつかねて見ていたわけではない。かれらはかの都市の安否、そこに立籠ったコリントス市民たちの安否をいたく心配した。そこでただちに同盟諸国にラケダイモーンに集まるように呼びかけた。(中略)またアイギーナはアテーナイ人に遠慮して公けに代表を派遣しなかったけれども、ひそかに使を送って、アイギーナの自治権が和約に反して侵害されてることを述べ、アテーナイとの戦争をきわめて強硬に主張した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1、67 から


このアイギーナの強硬姿勢がアテーナイ側に漏れたのでしょうか、いよいよアテーナイとペロポネーソス同盟が戦端を開くと(ペロポネーソス戦争)、アテーナイはアイギーナの全住民を追放するという挙にでました。アイギーナはアテーナイに征服されてしまったのです。

同(=戦争一年目の)夏、アテーナイ人はアイギーナの市民、婦女子、子供ら一切に強制立退きを要求した。その理由は、今次大戦の主たる原因はアイギーナ人らの責任に帰せられる、というのであった。だがアテーナイ人としては、ペロポーネソスに近接するアイギーナの地理的条件にかんがみて、アテーナイ市民を入植させて管理させて置くほうがおり安全と思われたからである。じじつ程なくしてアイギーナにアテーナイ人植民団を入植させた。故国を追われたアイギーナ人を、ラケダイモーン人はテュレアに住まわせ、耕作を行うことを許した。これはアイギーナ人の反アテーナイ抗争と、かれらが震災と農奴反乱の際スパルタに与えた恩恵とをねぎらう意味の処置であった。テュレアの領土は、アルゴスとラコーニアとの緩衝地帯にあって、海岸にいたる斜面を占めていた。こうしてアイギーナ人の一部は此処に住みつくこととなり、他の者たちはギリシアのあちこちへと四散した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻2、27 から

しかし、テュレアに移住したアイギーナ人も戦争中にアテーナイ軍に襲われて、そのほとんどが殺害されるという悲運に見舞われます。ペロポネーソス戦争の終わり頃、スパルタの将軍リューサンドロスがアイギーナ人の残存者を集めて島に戻したのですが、もはやアイギーナに昔の姿が戻ることはありませんでした。