「(6):キクラデス文明」でも少し触れましたが、このペロポネーソス戦争の6年目(BC 426年)にアテーナイによるデーロス島の「お清め」が行われています。
同冬、アテーナイ人は神託の命ずるところと称して、デーロス島の清めをとりおこなった。この趣旨の清めはこれより先に独裁者ペイシストラトスによっておこなわれたことがあったが、しかしその時は島全体についてではなく、神殿から見渡せる限りの地域が清めの対象であった。しかし今回は島全体が清められ、その次第は次のごとくして進められた。先ず、デーロス島で死んだ者たちの墓地はみな取り除かれ、そして爾後この島での死亡、出産は禁じられ、それらの兆ある者はレーネイア島に移されることとなった。(中略)
そして清めをおこなったのち、アテーナイ人はこの時「デーリア」祭という四年おきの祭典を設けた。しかしデーロスでは遥か古い頃にも、イオーニア人や周辺の島嶼の住民たちが集う盛大な催しが行われていた。(中略)その後にわたっても島嶼の住民やアテーナイ人らは合唱隊を送り犠牲を携えた参詣使を送りつづけていたのであるが、戦乱のため、おのずと競技の催しやその他の賑いもほとんど絶えていたのを、今回ふたたびアテーナイ人の祭典創始によってまた競技がおこなわれるようになり、かつてはなかった騎馬競技もその種目に加わることとなった。
トゥーキュディデース著「戦史」巻3、104 から
戦争中になぜこのようなことを行ったのでしょうか? 上記引用には「アテーナイ人は神託の命ずるところと称して」とありますが、私は「神託」が理由だったとは思えません。デーロス島の祭を創始することで、イオーニア人の団結を図ったのでしょうか? しかし、その後のアテーナイはそういう意図を想定しても説明のつかない行動を4年後にしています。BC 422年のことです。
翌夏、有効期間一年の休戦協定はピューティア祭までに失効したのであったが、この休戦期間中にアテーナイ人は、デーロス人をデーロスから立ちのかせた。その理由は、一つには島民が、ある古いいわれによる贖罪をなさぬままに聖域の住民となっていたこと、また一つには、先年アテーナイ人が清めをおこなった際に、先にも述べたごとく死者の墓跡を取りのぞけばそれでよいと思っていたのであるが、じつは汚れた島民をそのままにしておけば、自分たちの清めが不充分にしかおこなわれていないことになる、と考えたためである。そこでデーロス人は、パルナケースがかれらに与えたアジアのアトラミュッティオンに移住するなど、その他各人心の赴くまま他の地に移っていった。
トゥーキュディデース著「戦史」巻5、1 から
何とアテーナイ人はデーロス島民をデーロス島から追放してしまったのです。何らかの政治的背景がありそうですが、それが何なのかよく分かりません。この岩波の本の注釈には「ある古いいわれによる贖罪をなさぬままに」のところに「その言われは不明」とあり、「パルナケース」については「ダスキュリオン(黒海への入口)地方のペルシア総督」とありました。
このデーロス人たちは、翌年にはアテーナイ人によって元のデーロス島に戻されています。
またアテーナイ人は旧デーロス人をデーロス島に連れ戻した。これはアテーナイ人が戦争の被害に深く思いをいたし、またデルポイの神託もデーロス人の復帰を命じたからである。
トゥーキュディデース著「戦史」巻5、32 から
ここでも「デルポイの神託」を持ち出していますが、それが理由とは私には思えません。