神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ハリカルナッソス(14):ハリカルナッソスのディオニューシオス

アルテミシアが死んだあとハリカルナッソスを首都とするカーリア国は、その兄弟たちが順に統治を続けますが、やがてマケドニアアレクサンドロス大王の軍門に下ります。アレクサンドロスはヘカトムノスの娘アダにカーリアの統治を委ねました。その後のハリカルナッソスについて私は調べることが出来ていません。私に想像出来るのは、アレクサンドロスが若くして死んだ後の後継者争いがずっと続き、ハリカルナッソスがいろいろな国の支配下に入ったということです。やがてハリカルナッソスもローマの支配下に入ります。

すっと時代を下って、ローマのオクタウィウス、のちの初代ローマ皇帝アウグストゥス、がアクティウムの海戦でマルクス・アントニウスを破ってローマの最高権力者に上り詰めたBC 31年頃まで進みます。この頃、一人のハリカルナッソス人がローマに移住します。彼は修辞学の教師としてローマに赴いたのでした。彼はハリカルナッソスのディオニューシオスと呼ばれていました。彼はまた歴史家でもありました。ディオニューシオスの業績の一つは、ギリシア人でありながらローマの歴史をまとめたことで、彼によってまとめられた古代ローマの建国伝説はその後正統なものとして扱われました。もっともローマの歴史を著したのは元々ギリシア人のほうが早く、早期のローマには自分の歴史をまとめる余裕はなかったようです。その中でも一番早くローマの歴史を著したのはミュティレーネーのヘラニコスでした。


まだアントニウスが健在だった頃はハリカルナッソスはアントニウスの勢力圏内にありました。アントニウスはハリカルナッソスの北方にあるエペソスで軍を組織し、そこからオクタウィウスとの決戦を求めて西へ進み、アテーナイに、次にはパトライに到着します。一方オクタウィウスはイタリア半島の南端に近いタレントとブリンディシに軍を集結します。両軍の衝突がアクティウムで起ったので、つまりはアドリア海側で起ったので、エーゲ海東岸のハリカルナッソスは戦乱に巻き込まれることはありませんでした。その後、小アジアに進駐してきたオクタウィアヌスの軍に対してハリカルナッソス市政府も恭順を誓ったのではないか、と思います。このあとローマの平和が始まることになります。ローマ人たちは以前からギリシアの哲学、医術、芸術、修辞学などに一目おいていたので、ディオニューシオスは平和が確立された今こそ首都ローマに自分への需要があると見込んだのでしょう。
彼は長年ローマに住んでラテン語を修得し、当時の多くの著名人と交際したとのことです。そして修辞学の講義をする一方で、ローマの古い伝説を調査して、ローマの歴史を書きました。彼の著作『ローマ古代誌』は全20巻で、ローマの建国から第1次ポエニ戦争までの歴史を扱ったそうです。また、修辞学者としても後世に大きな影響を残したそうです。
ところで彼は著作「トゥーキュディデース論」の中で、同郷の先輩であるヘーロドトスに高い評価を与えていたとのことで、こういうことを知ると私はうれしくなります。


ハリカルナッソスがローマの平和の時代に入ったところで、私のハリカルナッソスの話を終えたいと思います。ハリカルナッソスは今ではその名をボドルムと変えていますが、今も都市として存続しています。今ではトルコの地方都市です。お読み下さった方に感謝いたします。