神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ハリカルナッソス(12):ヘーロドトス(2)

ヘーロドトスの生涯については、岩波文庫の「歴史」の(下)で、訳者の松平千秋氏による解説の中に書かれていましたので、(昭和47年=1972年 と古いですが)それを抜粋して紹介します。
:

(一)ヘロドトスの生涯――その生涯について知られるところは極めて少ない。紀元十世紀頃に編纂されたと推定される、いわゆるスダの辞典(中略)におけるヘロドトスおよび彼と関連する事項についての記述を基にして古代作家の断片的な言及を勘案しつつ、さらに彼の著作「歴史」自体の記述から推量しうるところを加味して、その大凡の輪郭を描きうるに止まるのである。
 スダがヘロドトスの項目下に記すところによれば、ヘロドトス小アジアの南部の町ハリカルナッソスの名家の出で、父の名はリュクセスといい、母はドリュオであったという。テオドロスという兄弟があり、また当時高名な叙事詩人パニュアッシスはその従兄弟であったと。(中略)
 父の名のリュクセス、従兄弟(中略)のパニュアッシスという名は、明らかにギリシア系ではなく、カリア語の系統に属するものである。それに対して母の名は(中略)ギリシア名であることは疑いなく、兄弟の名のテオドロス、またヘロドトス自身の名もともに立派なギリシア名である。思うに原住民であるカリア人の血統をひくリュクセスが、ギリシア系の女を娶り、生れた子供にはギリシア系の名を与えたと考えるのが自然な解釈であろう。(中略)なお従兄弟(中略)に当るパニュアッシスは、当時最もすぐれた叙事詩人としてその名を謳われた人で、今日ではその作品はほとんど失われて終ったが、作品の題名のいくつかは伝えられている。ヘロドトスがその豊かな文学的素養をこの人物に負うところが少なくなかったことは、容易に推察される。(中略)


ヘロドトス著「歴史」の「解説」から

このようにヘーロドトスはカーリア系の血を引いていると推定されています。ハリカルナッソスの特色のひとつがその町の中でカーリア人の地位がギリシア人と並んで高かった、ということを思い出します。こういうことは他のドーリス都市では見られなかったようです。ところでスダという辞典ですが、紀元10世紀頃の辞典ですので、ヘーロドトスが生きていた頃から1300年ぐらいのちのことになります。スダの記事がどこまで信用出来るのか用心が必要だと思います。

 ペルシア戦役当時のハリカルナッソスが、女傑として知られたアルテミシア一世の統治下にあったことは、「歴史」の記述からも知られるところで、ヘロドトスが彼女に深い尊敬の念を抱いていたことは、その叙述ぶりから明らかに看取される。その後彼女の孫(中略)に当るリュグダミスの代に至って、独裁者打倒を目指す反乱が起ったが、この企図は挫折し、パニュアッシスはこの争乱の間に命を落し、ヘロドトスサモス島へ亡命を余儀なくされた。彼のサモス滞在は相当の期間にわたったものと考えられ、巻三をはじめとしてサモスに関する詳細な記述は、その滞在中の見聞に基くものとされる。しかし再度企てられた反乱によってリュグダミスは打倒され、ハリカルナッソスには独裁制に代って民主制が敷かれた。この反乱においてヘロドトスがどのような役割を演じたかは明らかでないが、なにがしかの寄与をしたことは確かのようである。この革命の起った年代も明らかでないが、454年にこの町がデロス同盟に加わっている記録から推して、450年代のはじめと見るのが妥当であろうか。


ヘロドトス著「歴史」の「解説」から

私がヘーロドトスのアルテミシアへの讃美に違和感を感じるのはこういう点にも由来します。彼はアルテミシアの孫のために亡命せざるを得なくなったわけですのでアルテミシアの一族に敵意を持っていてもおかしくありません。私にはヘーロドトスが本当にアルテミシアを讃美していたのか、あるいはそれは皮肉の意をこめた賛辞なのか、よく分かりません。

 彼の長途の旅がこの帰国後からはじまり、恐らくは444年のトゥリオイ移住に至るまでの期間、幾度かにわたってつづけられたものであろうことは想像に難くないが、その年代や期間など詳細なことはもはや知るべくもない。


ヘロドトス著「歴史」の「解説」から

旅するヘーロドトスを題材に小説や映画を作ったら面白いと思います。なぜそこまで苦労してペルシア戦争の歴史を調査したのか、そして彼にどんなスキルがあったのか(例えば、いろいろな言語を片言であっても話せたのではないでしょうか)、どうやって日々の糧を得ていたのか(商業に従事していたのか、あるいは時には傭兵になったのか、あるいは各地のポリス(都市国家)の政策コンサルティングのようなことをしていたのか)、さまざまな疑問が湧いてきます。そこに想像を膨らませる楽しみがあると思うのです。
この、広範囲を旅しての調査の動機について彼自身は

  • 「人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バロバロイ)の果した偉大な驚嘆すべき事跡の数々――とりわけて両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて」

と書いています。その思いは理解可能ではありますが、それに一生を賭けるというのは、やはり常人ではありません。なかなか魅力的な人物ではないでしょうか。

ただ彼のアテナイ滞在がかなり長期にわたったことについては、ほとんど疑う余地がない。そしてこの滞在中にペリクレス、ソポクレスらの名士たちと交友関係を結び、彼自身アテナイ人から深く敬愛されていたことは、いくつかの伝承からも十分察せられる。アテナイは彼の著述のための資料蒐集にも重大な意味を担っていたに相違ないが、それよりも一層重要なことは、ペリクレス統治下にあって全盛を誇っていたアテナイの文化が、ヘロドトスに及ぼした精神的影響であったといわなければならない。(中略)
 444年にヘロドトスは、アテナイが中心となって計画した南イタリアのトゥリオイ植民に参加する。これはペリクレスの発意にかかるもので、(中略)古都シュバリスの跡に建設された新しい植民都市であった。ヘロドトスがこれに参加した動機は明らかでない。(中略)
 死歿の年代も場所も明らかでない。トゥリオイで生涯を終え、その墓も同地にあったという伝承があるが定かではない。(中略)
 歿年が少なくとも430年以後であることは、「歴史」の中にペロポネソス戦争にふれた箇所がいくつかある事実からほぼ間違いない(例えば巻九、七三節)。(中略)
 以上がヘロドトスの生涯について、われわれの知る大凡の輪郭である。


ヘロドトス著「歴史」の「解説」から



(左:トゥリオイの位置)