神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コース(8):ヒポクラテース(2)

 ヒポクラテースの名声は生前から高かったのですが、その生涯について詳しいことは伝わっていません。それで何か情報がないかと探してみたところ、哲学者プラトーンの対話篇のひとつ「パイドロス」にヒポクラテースの名前が登場していました。ソークラテースとパイドロスが弁論術について対話しているところです。以下に引用する箇所で、ソークラテースは弁論術がどんなものであるかを、医術と対比しながら明らかにしていこうとしています。

ソクラテス
・・・・つまり、医術とは、身体に薬と栄養とをあたえて健康と体力をつくる仕事であり、弁論術とは、魂に言論と、法にかなった訓育とをあたえて、相手の中にこちらがのぞむような確信と徳性とを授ける仕事であるが、もし君が、こういった仕事にあたって、たんに熟練や経験だけに頼らずに、一つの技術によって事を行なおうとするならば、医者の場合には身体の本性を、弁論術の場合には魂の本性を、分析しなければならないのだ。


パイドロス
たしかにそうかもしれませんね、ソクラテス


ソクラテス
ところで、魂の本性を理解するのに、それの全体の本性をはなれて満足に理解することができると思うかね。


パイドロス
いやしくもアスクレピオス派の医学者、ヒポクラテスの言葉を多少とも信じなければならないとすれば、身体についても、あなたが言われた方法をとらないと、その本性を理解するのは不可能なことです。


ソクラテス
そうだとも、君、ヒポクラテスの言うことは正しい。けれどもぼくたちは、ヒポクラテスだけに頼っていないで、さらにものの道理そのものにたずね、道理の示すところがヒポクラテスの言葉と一致するかどうかを、しらべてみなければならぬ。


パイドロス 270B-C」

 プラトーンの対話篇は、歴史の記録ではなくプラトーンの創作ですから、これだけでこの時代にヒポクラテースの名声がアテーナイまで届いていた証拠にはなりません。ですが少なくともプラトーンが「パイドロス」を書いた頃には、プラトーン自身はヒポクラテースの名声を知っていた証拠にはなります。では「パイドロス」がいつ頃書かれたかといいますと、BC 375年あたりと推定されています。ヒポクラテースが生まれたのがBC 460年頃ですので、これは同時代の証言とするには少し苦しいです。ただ、ソークラテースはヒポクラテースとほぼ同年代の人なので、あるいはソークラテースは本当にヒポクラテースを知っていたのかもしれません。



(コース島の「ヒポクラテースのプラタナス」。この木の下でヒポクラテースが弟子たちに医学を教えた、との伝説がある。コース島の観光スポット。)


 ヒポクラテースの同時代人には、歴史家のトゥーキュディデースもいます(このブログでよく登場する人です)。彼の著作にはヒポクラテースの名前は出てきませんが、著書「戦史」の巻2にはアテーナイを襲った疫病の叙述があります。その叙述の仕方が「ヒポクラテース(1)」で紹介したヒポクラテースの「流行病」という著作の叙述の仕方とよく似ている、との指摘があります。トゥーキュディデースはこの疫病に自らも感染し発病したと書いています。彼の叙述内容を見ると、あとから記憶を頼りに書いたとは思えず、この疫病の進行中に記録を付けていたと思えます。それもヒポクラテースの流儀で記録を取っていたと思えます。この疫病発生はBC 430年で、ヒポクラテースもトゥーキュディデースも当時30歳前後です。それにしてもトゥーキュディデースはこの疫病発生以前にヒポクラテースから医学を学んだのでしょうか? トゥーキュディデースはアテーナイの名門貴族ピライダイに属しており、この一門は多くの政治家を出していました。このような政治家一族の若き一員とコース島の若き革新的な医者との間にどのようなつながりがあったのでしょうか? それを考えると想像を刺激されます。トゥーキュディデースの「戦史」も、ヒポクラテースの諸著作と同様に「神意による説明」を徹底的に排除しているのでした。


 ヒポクラテースはコース島に居続けたわけではなく、あちこちに移住しながら治療をしていたようです。ひょっとしたらアテーナイに来たことがあるのかもしれませんし、トゥーキュディデースがアテーナイを出て、どこかでヒポクラテースの門をたたいたのかもしれません。


 ペロポネーソス戦争は、アテーナイでの疫病の前年BC 431年に始まりました。この戦争は前半はコース島には戦禍が及ばなかったのですが、BC 413年にアテーナイの遠征軍がシシリー島のシュラクーサイ(現在の地名はシラクサ)で全滅すると、アテーナイの敗北は近いと考えたイオーニア諸都市が軒並みアテーナイに対して反乱を起し、その影響で戦線はイオーニアに移り、イオーニアに近いコース島も戦禍に見舞われたのでした。BC 412年、コースはアステュオコス率いるスパルタ軍に襲われます。

その間に、カウノスからの知らせが、船二十七艘とラケダイモーンからの顧問官らの到着を告げた。するとアステュオコスは、この際他のことを一切後廻しにしても、より強力な制海権を得るためには、先ずはこの大船隊を護衛誘導せねばならぬ(中略)と考えるや(中略)カウノスへ船をすすめた。そして沿岸航行の途次メロピスのコースに上陸、この町には本来城壁の備がなく、しかもちょうどその頃、われわれの記憶する限りでは、最大の地震がここを襲って、全市倒壊の状態にあったところを襲撃し、住民が山岳地帯に避難している虚をついて、耕地を縦横に蹂躙して略奪品を獲得したが、市民の身柄には手を触れず、これらを釈放してやった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8、41 から

このときヒポクラテースは48歳ぐらいです。彼がこの時にコースにいたのかどうか、いたならばどうしていたのか、気になります。


 結局、ヒポクラテースの生涯についてはあまり書くことが出来ませんでした。ヒポクラテースは長命で90歳ぐらいまで生きたということです。