神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ハリカルナッソス(7):アルテミシア(1)

BC 499年のイオーニアの反乱にハリカルナッソスは参加していなかったようです。ヘーロドトスの記述にはハリカルナッソスだけでなく、近隣のドーリス人の町の名前すら登場しません。ただ近隣のカーリア人は反乱に参加し、一度はペルシア軍を殲滅しています。それでも最終的にはペルシアに降伏せざるを得なくなるのですが。

カーリア人も含む町だったハリカルナッソスがこの間どうしていたのか知りたいです。しかし、なぜかヘーロドトスは何も書いていません。自分の故郷のことなので、書くと何かマズいことでもあったのでしょうか? その後のBC 490年のペルシア王ダーレイオスによる第一次ペルシア戦争にハリカルナッソスが動員されたのかどうかも書かれていません。ヘーロドトスが書いているのは、BC 480年のペルシア王クセルクセースによる第二次ペルシア戦争の時のハリカルナッソスのことです。



(左:アルテミシア。たぶん後世の想像図)


この時ハリカルナッソスはペルシアの海軍の一員として参加していました。そしてハリカルナッソスはアルテミシアという女性が独裁権を持って支配しており、アルテミシア自身が船を率いてこの海軍に参加していました。ヘーロドトスはアルテミシアのことを「私の讃嘆おく能わざるアルテミシア」といい「もって生れた豪気勇武の気象」といって讃えるのですが、私にはその理由が分かりません。ヘーロドトスはクセルクセースがギリシアへの遠征軍、それは陸軍と海軍からなるのですが、それを組織し、いよいよ出発するという時に陸軍と海軍のそれぞれについて、それを構成する民族とその武装の姿などを長々と描写しています。その中の海軍の描写のほうにアルテミシアが登場します。

ただ女の身でありながらギリシア遠征に参加し私の讃嘆おく能わざるアルテミシアには触れなければならない。この女性は夫の死後自ら独裁権を握り、すでに青年期に達した息子もあり、また万止むを得ぬ事情があったというのでもなかったのに、もって生れた豪気勇武の気象から遠征に加わったのであった。その女性の名はアルテミシア、父はリュグダミスといい、父方の血筋からいえばハリカルナッソス人、母方からはクレタ人であった。アルテミシアの支配はハリカルナッソスからコス、ニシュロス、カリュムノスの諸島に及び、供出した船は五隻であった。全艦隊を通じ、シドンの船についではアルテミシアの出した船が最も評判が高かったし、また同盟諸国の全将領の中で最も優れた意見を陳べたのも彼女であった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、99 から

アルテミシアの父親のリュグダミスは、ペルシア支配下のハリカルナッソスで太守(サトラップ)を務めていたと英語版のWikipediaの「カーリアのアルテミシア1世」の項に書かれていました。上の文章によるとアルテミシアは夫の死後ハリカルナッソスの独裁権を握ったということですが、不思議なことにこの夫の名前をヘーロドトスは記していません。英語版のWikipediaにも書かれていないので、たぶん今でも不明なのでしょう。文意からするとアルテミシアが独裁権を握る前はこの夫がハリカルナッソスの支配者だったということになりますが、どのようにして彼がその地位を得たのかも気になります。また、アルテミシアの「すでに青年期に達した息子」については英語版Wikipediaにはピシンデリスという名前が書かれていました。


ヘーロドトスがアルテミシアのことを「私の讃嘆おく能わざる」と記述するのか私には不可解です。上の引用には「アルテミシアの出した船が最も評判が高かった」とありますが、アルテミシアが率いてきたのはたったの5隻です。ヘーロドトスは上の引用より少し前のところでペルシアの海軍の三段橈船の総数を1207隻と書いています。いくら船が立派でも1207隻の中のたったの5隻です。「また同盟諸国の全将領の中で最も優れた意見を陳べたのも彼女であった」とありますが、これは具体的にはのちに出てくるサラミースの海戦でのエピソードのことを指していると思われます。それはクセルクセース王が海戦の直前に、主だった将士にギリシア連合軍と海戦をすべきかどうかの意見を尋ね、皆が海戦に賛成した中でアルテミシアだけが海戦に反対した、というエピソードです。確かにこのサラミースの海戦でペルシア海軍はギリシア連合軍に惨敗し、クセルクセースはほうほうの態でペルシアに逃げ帰ることになるので、アルテミシアの意見が正しかったのでした。しかし、そうだとしてもクセルクセースはアルテミシアの意見を採用しなかったわけですから、それほどクセルクセースから重要視されていたわけでもなさそうです。これらの点で、私にはヘーロドトスの讃嘆ぶりを不可解に思うのです。


さてサラミースの海戦ですが、今までミーレートスについて書いた時にもミュティレーネーについて書いた時にも簡単にしか書きませんでしたから、ここではもう少し記述を追加します。

クセルクセースが陸軍と海軍の大部隊を率いてアテーナイを目指してきた時に、アテーナイが取った作戦は、アテーナイを放棄し全員を近くのサラミース島に避難させ、海戦に全てを賭ける、という作戦でした。これは最終的に大勝利につながったのですが、そのためにはサラミースから目と鼻の先にあるアテーナイが、ペルシア軍に占領され、建物に火をつけられ、全土を焦土とさせられるのを座視しながら耐えなければならないという、苛酷なものでした。ここにまで事態を持ってくるにはさまざまな出来事や決断、策略などがあったのですが、ハリカルナッソスにはあまり関係しないので省略します。さて、クセルクセース王はこの戦争はもう勝ったも同然だと思っていました。そして、あとはサラミースにいる残党を始末すればよい、と考えていました。彼はこのあと海戦を行なうつもりでいましたが、その前に主だった将帥に意見を聞いてみる気になりました。

さて右の全部隊がアテナイ地区に達したとき(中略)クセルクセスは水軍の将士たちと接触しその意見を知りたく思い、自ら船団を訪ねた。クセルクセスが到着して最上席に坐ると、船団からは召しに応じて各国の独裁者と部隊長が参集し、王の定めた序列に従って座を占めた。第一にはシドンの王、次にテュロスの王というふうに順次席についたのである。一同が席次に従って居並ぶと、クセルクセスは各人の真意を探ろうとして、マルドニオスを介して海戦を開く是非を質問した。


ヘロドトス著「歴史」巻8、67 から