神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミュティレーネー(6):ペンティリダイ(ペンティロスの子孫)

ミュティレーネーの建設についてネットをいろいろ検索していたところMuzaffer Demirという方(どうもトルコ人の教授らしいです)の英語の論文「Making sense of the myths behind aiolian colonisation(アイオリス人の植民活動の背後にある神話を理解する)」を見つけました。その論文の中にBC 1世紀の地誌学者ストラボーンからの引用がありました。それを以下に引用します。

実際、アイオリス人の植民活動はイオーニア人の植民活動よりも4世代前に行われたが、遅れが生じ、より長い時間がかかったと言われています。なぜなら、オレステースが遠征の最初の指導者だったと言われていますが、彼はアルカディアで亡くなり、息子のペンティロスが彼の後を継いでトロイア戦争の60年後、ヘーラクレイダイがペロポネーソスに戻ってきた頃、トラキアまで進みました。そして、ペンティロスの息子アルケラーオスがアイオリス人の遠征隊を率いて、ダスキュリオンの近くの現在のキュジケーネにたどり着きました。アルケラーオスの一番若い息子のグラースはグラニコス川へと進み、装備が整っていたため、軍の大部分をレスボスに導いて占領しました。


ストラボーン「地理誌」(13.1.3)より


このオレステースというのはトロイア戦争ギリシア側の総大将でミュケーナイ王のアガメムノーンの一人息子です。アガメムノーンがトロイアを亡ぼしてミュケーナイに帰国した時に、その妻クリュータイメーストラーはアガメムノーンを謀殺してしまいます。それはかつてトロイア戦争の成就のために娘イーピゲネイアを生贄に捧げたことを恨んでのことでした。そして同じくアガメムノーンに恨みを持つアイギストス(彼はアガメムノーンの従兄弟にあたります)を味方につけて、彼をミュケーナイの王位につけます。アガメムノーンの息子オレステースはその時まだ子供で、別の町ポーキスに送られていました。オレステースは成人したあと、神アポローンの促しもあって父の仇として自分の母親クリュータイメーストラーを、アイギストスともども殺します。ところがこれが母親殺しという古くから伝わる恐ろしい罪を構成する、ということになって、オレステースは復讐の女神たちに常に追跡されることになり、狂気にさいなまれながら諸国をさ迷うようになります。オレステースは最終的には女神アテーナーの主催する法廷で裁かれて無罪を勝ち取り、一方、復讐の女神たちはアテーナーの説得によってアテーナイの地に慈しみの女神たちとその性格を変えて鎮まることになります。

(上の絵は、ウィリアム・アドルフ・ブグローの「オレステースの後悔」)


ペンティロスはオレステースとエーリゴネーの間の子でした。オレステースの正妻はヘルミオネーなので、ペンティロスは非嫡出の息子ということになります。エーリゴネーは、オレステースの仇であったアイギストスの娘でした。仇の娘を娶るというのはどういう事情があったのでしょうか。よく分かりません。それはともかく、上のストラボーンからの引用によればこのペンティロスがアイオリス人を率いてトラキアまで植民したのでした。なぜ、ペンティロスが一族の本拠地のペロポネーソスを離れたかと言えば、その頃、ヘーラクレースの子孫を名乗る集団がこの頃大挙してやってきてペロポネーソスへの侵入を繰り返していたからです。史家トゥーキュディデースはその著作でヘーラクレースの子孫のペロポネーソスへの侵入について述べています。

トロイア戦争後にいたっても、まだギリシアでは国を離れるもの、国を建てる者がつづいたために、平和のうちに国力を充実させることができなかった。その訳は、トロイアからのギリシア勢の帰還がおくれたことによって、広範囲な社会的変動が生じ、ほとんど全てのポリスでは内乱が起り、またその内乱によって国を追われた者たちがあらたに国を建てる、という事態がくりかえされたためである。また、現在のボイオーティア人の祖先たちは、もとはアルネーに住居していたが、トロイア陥落後60年目に、テッサリア人に圧迫されて故地をあとに、今のボイオーティア、古くはカドメイアといわれた地方に住みついた。また80年後には、ドーリス人がヘーラクレースの後裔らとともに、ペロポネーソス半島を占領した。こうして長年ののち、ようやくギリシアは永続性のある平和をとりもどした。


トゥーキュディデース「戦史 巻1 12」より

さらにペンティロスの息子のアルケラーオスが植民団を引き継いでさらにヘレースポントスのキュジケーネ(おそらくはキュージコス)まで進み、さらにそのまた息子のグラースがレスボス島を占領したということです。このグラースからミュティレーネーの王家が発するようです。彼らはペンティロスの子孫という意味のペンティリダイという名で呼ばれていました。


しかし、以上の伝承が、マカルの娘ミュティレーネーの名を記念してミュティレーネーの町が出来たという伝承とどのように関係するのでしょうか? そこはよく分かりません。また、アイオリス人の植民の指導者がなぜ、アイオリス人とは関係のないミュケーナイのオレステースの子孫だったのかもよく分かりません。


次に述べなければならないのは古代ギリシア史において現在では暗黒時代と呼ばれている資料のない時代です。この時代の出来事を私は何とか述べたいと思うのですが、なかなか手がかりが見つかりません。ミーレートスの歴史を述べた時に紹介したような、キンメリア人やスキュタイ人が海を越えてミュティレーネーに来たということはなかったようです。ひょっとすると海を隔てた北のトラーキア人はやってきたかもしれませんが、あいにく、この頃の記録や伝説はありません。また、あるいは、ミーレートスのところで紹介したレーラントス戦争にミュティレーネーが参加していたかもしれませんが、それを示唆する記事を見つけることが出来ませんでした。