神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

クラゾメナイ(2):ヘルモティモス

ヘルモティモスについては断片的な情報しかなく、それも神話的な話でしかありません。そのひとつは、ディオゲネース・ラーエルティオスが伝えるもので、ヘルモティモスがピュータゴラースの前世だったという話です。正確にはヘルモティモスが生まれ変わってデーロス島の漁師ピュロスになり、そのピュロスが生まれ変わってピュータゴラースになった、そしてピュータゴラースがこれらの前世を覚えていた、という話です。この話では、ピュータゴラースがヘルモティモスであった時も自分の前世を覚えていた、といいます。その前世とはギリシア神話におけるトロイア戦争の頃のことで、トロイアの将エウポルポスという人物だったということです。彼はトロイア戦争ギリシアのスパルタ王メネラーオスに討たれて死にました。そしてヘルモティモスは、自分がエウポルポスであったことの証拠を示したいと思って、ミーレートス南方のディデュマにあるアポローン神殿に入り、神殿を管理する一族ブランキダイの神官を前にして、そこに保管されている奉納物の中から、朽ち果ててわずかに象牙の表面のみを残す楯を指して「これはメネラーオスの使っていた盾である」と言いました。ブランキダイに伝わる伝承では、確かにその楯はトロイアから帰航するメネラーオスが神殿に奉納したものと言われていたのでした。





ディデュマのアポローンの神殿の遺跡

ピュータゴラースが活躍したのはBC 540年頃ですので、当時の人間の寿命を短く見積もって50年としてもヘルモティモスはBC 640年頃に活躍していたことになります。あるいは、もっと昔の人なのかもしれません。


もうひとつの話も奇怪な話です。この話については岩田拓郎という方が「アーケィイク期ギリシア思想史への模索:或る二つの著作の検討を手掛かりとして」(北海道大學文學部紀要, 32(2), 1-73)の中で詳しく紹介されていましたので、それを引用します。

彼について紀元前二世紀の人アポロニオス(中略)が、次の如き内容の物語を伝えている。――「伝承によれば、クラゾメナイの人ヘルモティモスの魂は離れて彷徨し、多年にわたり不在であった。そして別々の場所で大洪水や旱魃や疫病などについて予言をおこない、その間彼の身体の方は硬直したまま力を失った状態で自分の家に横たわっていた、そして彼の魂は一定の期間ののちもとの鞘に戻るが如くに再び身体に帰ると、身体を立ち上がらせた、と云う。こうしたことを彼は繰り返しおこなった。彼は自分の妻に、彼が脱魂をおこなっているときに誰にも自分の身体を触れさせてはならぬ、たとい相手がクラゾメナイ市民であろうとなかろうともそれを許してはならぬ、と厳命していたのだった。ところが幾人かが彼の家に入り、彼のかよわい妻に懇願して彼女の心を動かした。彼らはヘルモティモスが裸で身動きひとつせず地べたに横たわっているのを見届けた。彼らはこのヘルモティモスの身体を火に掛けて焼いたが、これは彼の魂が再び戻って来ても入るべきものがどこにもなく、魂としての生存を完全に奪われると考えたからであったが、じっさいそうした結果となった。クラゾメナイの住民は現在に至るまでヘルモティモスを祀り聖域を彼に捧げているが、この聖域には女性は立ち入りを禁止されており、その理由はいま述べたいきさつによる。」

この「幾人か」がどんな意図でヘルモティモスを抹殺してしまったのか、この記述だけでは分かりません。この岩田拓郎著「アーケィイク期ギリシア思想史への模索:或る二つの著作の検討を手掛かりとして」によれば、別の伝承では彼らは「カンタリダイ」と呼ばれている、ということで、それに関連して次に引用するような説を紹介しています。

ヘルモティモスの身体を焼いた人々が、「カンタリダイ Cantharidae」と呼ばれたとの伝承に注目すれば、ディオニュソス信徒集団を指すものと考えられる。なぜなら紀元前六・五世紀以降ディオニュソスは通常彼の片手に「カンタロス cantharos=酒杯」を持った姿で表現され、またクラゾメナイを含めて小アジアでとくにディオニュソス信仰の集団の存在が多く認められるからである。だからヘルモティモスに敵意を抱く一部のディオニュソス信徒たちが彼の身体を焼いた、との想定も可能である。

とはいえ、なぜこのディオニューソス信徒集団がヘルモティモスに敵意を抱くに至ったのかが、この記述だけでは分かりません。この物語には何か深い背景があるように感じます。それにしても、この物語で「この聖域には女性は立ち入りを禁止されており、その理由はいま述べたいきさつによる」というのはひどいと思います。責められるべきはヘルモティモスの妻ではなく彼の家にやってきた「カンタリダイ」の方ではないでしょうか?

ディオニューソス神の付き人たち)


有名な哲学者アリストテレースは、ヘルモティモスのことを物事の原因としての「理性」を主張した人物であると書いています。

だから、或る人が理性(ヌース)を動物のうちに存するように自然のうちにも内在するとみて、理性をこの世界のすべての秩序と配列との原因であると言ったとき、この人のみが目ざめた人で、これにくらべるとこれまでの人々はまるでたわごとを言っていたものかともみえたほどである。ともあれ明らかに、アナクサゴラスは、我々の知るところでは、こうした説をとっていた人である。ただし、かれより以前にも、すでにクラゾメナイのヘルモティモスがこの説をなしていたものと信じられる。


アリストテレース形而上学」第1巻第3章


今回私はヘルモティモスのことを調べているうちに、彼のことをクラゾメナイにおける神話と伝説の間の時期の人物と考えて、興味を覚えるようになりました。