神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミュティレーネー(17):ヘラニコス

ミュティレーネー生れの歴史家ヘラニコスは、ミュカレーの戦いの時10歳ぐらいでした。ですのでヘラニコスはミュカレーの戦いのことを同時代の出来事として経験したことでしょう。そしてその後のデーロス同盟結成とそれに自分の町が参加したことを知り、やがてアテーナイがエーゲ海を支配するようになっていった有様を見ていったことでしょう。彼の歴史書の中で有名なのは「アッティス」という名前で、アテーナイを中心とするアッティカ地方の歴史が書かれていたそうです。それは彼のこうした体験に基づいていると思います。ただ、残念なことに彼の作品は現存していないそうです。

彼は初期の歴史家の中で最も多産な者のひとりであった。彼の多くの作品は今では失われたが、非常に影響力があった。彼は他の多くの著者によって引用された。
(中略)
ラニコスは特にアッティカに関する年表や地理や歴史の作品を著作した。その中で彼は、彼がギリシア神話とみなしたものを歴史から区別した。アテーナイの歴史編纂における彼の影響は相当であり、エラトステネス(BC 3世紀)の時代まで続いた。
(中略)
彼は古い、世代毎の計算の代わりに第一にはアルゴスのヘーラーの祭司のリストに基づいて、2番目には系図や、執政官(例えばアテーナイのアルコン)のリストやオリエントの日付に基づいて、科学的な年代学の基礎を作ろうと努力した。しかし彼の材料は不満足なもので、しばしば彼はより古い手法で情報源を探さざるを得なかった。


英語版Wikipediaの「レスボスのヘラニコス」の項より

彼に先行する歴史家としてはミーレートスのヘカタイオスがおり、私がよく引用するヘーロドトスは彼よりずっと年下でハリカルナッソスの生まれです。ヘーロドトスよりあとの有名な歴史家トゥーキューディデスはアテーナイの生まれでした。彼らの生きていた時代を図示してみました。


さて今回私が英語版Wikipediaの「レスボスのヘラニコス」の項を読んでビビッと反応したのは、彼の著作の中にアトランティスというものがある、という記事です。アトランティスと言えば、とても有名な失われた古代文明、海に沈んでしまった古代大陸、ということで今日、SFっぽい物語や、オカルトっぽい話に登場しますが、この話、元はと言えば有名な哲学者プラトーンが書いた書物に由来しています。プラトンがその著作「ティマイオス」と「クリティアス」でアトランティスの物語を記述してからずっと、この話は真実の話なのか、あるいはプラトーンの創作なのか、議論が絶えませんでした。プラトーンはBC 427年の生まれなので、どう考えてもヘラニコスの「アトランティス」のほうが先行しています。そこで、ここにプラトーンよりも先行して謎の大陸のことが書かれているかと期待したのですが、そうではありませんでした。

アトランティス(あるいはアトランティアス)、ティタン神族のアトラースの娘について。彼の文書のいくつかは、カール・ロバートがアトランティスと呼んだ叙事詩に由来しているらしく、その断片はオクシュリンコス・パピルス 11, 1359であろう。


英語版Wikipediaの「レスボスのヘラニコス」の項より


ギリシア神話にはアトラースという名の巨人が登場します。彼は大空を支えている巨人ということになっています。私は正直言って古代のギリシア語の文法が分かっているわけではないので間違った説明かもしれませんが、アトランティスというのはアトラースという名詞から作られた形容詞で、つまり「アトラースの」という意味だそうです。さらにこの形容詞がそのまま名詞になって「アトラースの何か」を意味しているらしいです。しかもそれは女性名詞らしいので、通常の意味は「アトラースの娘」ということになります。しかし、土地とか国という名詞も女性名詞なので、ここから「アトラースの土地」とか「アトラースの国」とかいう意味にも取ることが出来ます。
つまり、プラトンの著した物語のアトランティスは「アトラースの国」という意味のアトランティスだったわけですが、ヘラニコスのアトランティスは「アトラースの娘(たち)」という意味のアトランティスだったわけです。


だからこの二つの物語は無関係だ、と言うことが出来れば話は簡単なのですが、そうは言えない事情があります。と言うのは、アトラースの娘の一人にエレクトラがあり、そのエレクトラはゼウスに愛されてダルダノスを生んだのですが、彼がトロイアの王家の祖となるからです。これだけではまだプラトーンの描くアトランティスとの関係が見えてきませんが、実は、プラトーンが描くアトランティスは実はトロイアのことだ、という説があるのです。それはドイツ生れの地理考古学者エーベルハルト・ツァンガーが唱えた説です。


随分昔のことになりますが、私はツァンガーの以下の書を読んで、かなり衝撃を受けました。私が読んだ感じでは、彼はけっして怪しげな人ではなく、ちゃんとした科学者のように思えます。

そうは言いながら、私は彼の説に全面的には賛成出来てはいなかったのですが、ヘラニコスが「アトランティス」という書物を著していたことで、もう少し彼の説を支持してもよいかな、と思うようになりました。少なくともアトラースの娘のことをアトランティスと呼び、その名を持つ叙事詩(上記引用参照)が存在したということは確かだったわけです。そして、それがトロイアと関係を持っていることも確かになりました。そして、そのことを記録したヘラニコスが、トロイアのあった地方に歴史的に利害関係を持つミュティレーネー人であることが私の興味を引きました。
私はひょっとして上記「天からの洪水」の中に、ヘラニコスがアトランティスという書物を著したことが記されているかと思って読み直したのですが、書かれてはいませんでした。これに関してもうひとつ面白いことはヘラニコスは「トロイカ」という名前の、トロイアの歴史を記した書物を著していることです。プラトーンの著したアトランティスの物語の一部は、ヘラニコスのこの著作に由来しているのかもしれません。