神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミュティレーネー(11):シゲイオンのゆくえ


さて、アテーナイがシゲイオンを占領したために、ミュティレーネーは近くのアキレイオンに植民市を建て、そこに軍を置いて、アテーナイ勢との小競り合いを続けていました。ところで、このアキレイオンというところは、ここにトロイア戦争でのギリシア側の英雄だったアキレウスの墓と伝えられるものがあったために付いた地名です。その後両者はコリントスの僭主であるペリアンドロスに調停を依頼しました。

 ミュティレネとアテナイは、キュプセロスの子ペリアンドロスの調停によって和解した。両者がペリアンドロスに調停を依頼したのである。ペリアンドロスが示した調停の条件は、双方とも現在占拠している地域を保有するということであった。こうしてシゲイオンはアテナイの領有に帰したのである。


ヘロドトス「歴史 巻5・95」より

上に引用したヘーロドトスの記述では両者が和解したことになっていますが、和解はせず、その後、ミュティレーネーはシゲイオンを奪回します。ところで、上でペリアンドロスが調停する際に、アテーナイが主張した論拠は以下のようなものだったそうです。

このイリオン(トロイア)の地域に関しては、メネラオスに加担してヘレネ誘拐の報復をしたアテナイはじめその他のギリシア諸国以上に、アイオリス人が請求権をもつはずがないことを論証して、ゆずらなかった。


ヘロドトス「歴史 巻5・94」より

ホメーロスの「イーリアス」を論拠にしていたわけです。「イーリアスによればトロイア戦争ギリシア方として戦ったものの中にアテーナイ勢は登場しているが、レスボス勢は登場しないだろう。だから、少なくともこのトロイアの地方についてはアテーナイのほうがミュティレーネーより優先権があるのだ。」という理屈を述べたのでした。
しかし、と私は思います。確かにイーリアスでレスボスの名前が登場するのは「ミュティレーネー(2):トロイア戦争の頃」に引用した一箇所で、その記述からはむしろレスボス島はギリシア方ではなくトロイア方のように見えます。かといって、アテーナイ勢にしても私の記憶では以下の二箇所しか出てこなかったと思います。

 さてまたアテーナイの、よく築かれた城市(しろまち)を保つものども、
心のおおいなエレクテウスが邑(さと)、その人をかつてはゼウスの
御娘アテーネーが養い上げた、産んだのは粟をみのらす畠の土、
してアテーナイへと、みずからが豊かな社殿に据えおきたもうた、
その場所で女神に、牝牛だの小羊だのを、あまた献げて
アテーナイの若者どもが、めぐり来る来る年ごとに祭るならわし。
さてこの者らを率いるのは、ペテオースの子メネステウス、
この世にある人間として、誰一人彼に及ぼう者はなかった、
戦さの車、あるいは楯を携える、もののふどちを調練するのに。
ただネストール一人だけは年長(としかさ)故に、競争し得たが。
その彼と一緒に、五十艘の黒塗りの船が随って来た。


ホメーロスイーリアス 第二書」より

この所で、ボイオーティア勢、また衣を引き摺るイオーニア勢など、
またロクリス勢やプティーエーの勢や、誉れも高いエペイオイらが、
船をめがけて進み寄る(ヘクトールを)やっとのことで支えていたが、到底
火焔のように勇ましいヘクトールをば、味方の陣から追い払いはできなかった。
こちらの方にはアテーナイ勢から、撰りすぐった者、その部隊には
大将としてペテオースの息子、メネステウスが加わり、つづいて
ペイダースやスティキオネスや、雄々しいビアースが附き従う


ホメーロスイーリアス 第十三書」より

イーリアスの中でアテーナイ勢は全然活躍していないのです。ですので、これは結構ずうずうしい理屈だと私は思います。


さて、ミュティレーネーがシゲイオンを奪回した頃のアテーナイは僭主ペイシストラトスが支配していましたが、ペイシストラトスはシゲイオンを奪い返しました。そして自分の庶子ヘゲシストラトスをその町の僭主にしました。その後、シゲイオンはアテーナイの植民市というよりかはペイシストラトス家の私有地のような位置づけになりました。ミュティレーネーは再奪回を期したと思うのですが、この頃、小アジアには「サルディスの陥落」という大事件が発生しました。リュディア王国がペルシア王国によって滅ぼされたのです。BC 546年のことでした。