神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エピダウロス(10):アスクレーピエイオン(2)

蛇はアスクレーピオスにまつわる聖なる生き物でした。日本的に考えれば「神のお使い」のようなものでしょうか。そのため、蛇によって病を癒されたと主張する碑文もあります。

蛇に足の指の治療をされた男(SIG 1168 112-119)
 彼は足の指に広がる悪性潰瘍のため体調がひどく悪く、日中神域の召使いたちに外に運び出され、安楽椅子に座っていた。彼が眠りに襲われると、一匹の蛇がアバトンから出てきて、舌で彼の指を治療し、その後またアバトンへ戻っていった。彼が目を覚まして元気になった時、自分は夢を見た、美しい容姿の若者に膏薬を指に塗ってもらったように思われる、と語った。


「古代ギリシアのエピダウロス巡礼:アスクレピオスの治療祭儀」山川廣司著 より

アスクレーピオスは蛇の巻きついた杖を持っています。この杖の図像は現代ではWHO(世界保健機関)のシンボルマークとして使われています。治療の神としてのアスクレーピオスにちなんだものです。


エピダウロスのアスクレーピエイオンある建物については、すでにアスクレーピオスの神殿とアバトンと呼ばれる病人が霊夢を見るために眠るための施設のことをご紹介しましたが、このほかにもトロスと呼ばれる円形の建物やカタゴゲイオンという名の宿泊施設、それに公衆浴場や競技場や体育館、古代の劇場までありました。この劇場は音響効果が現代であってもすばらしく、舞台でのささやき声が遠くの客席からでもはっきり聞こえたといいます。AD 2世紀の旅行家・地理学者のパウサニアースはこの劇場の美しさをほめています。

エピダウロス人は聖域内に劇場を持っており、それは私の意見では見る価値が非常にあります。ローマの劇場は他のどこよりもはるかに優れており、メガロポリスアルカディア劇場は、その規模において他に類を見ないですが、どの建築家が対称性と美しさでポリュクレイトスに真に匹敵することが出来るでしょうか? というのは、この劇場と円形の建物の両方を建てたのはポリュクレイトスだったからです。


パウサニアース「ギリシア案内記」2.27.5より


それにしても病人を癒すことを主眼としているアスクレーピエイオンになぜ劇場があるのでしょうか? 英語版のWikipediaの「エピダウロスの古代劇場」の項には以下のように説明されていました。

劇場は最大13,000人から14,000人の観客を収容し、アスクレーピオスの礼拝に含まれている音楽、歌、演劇のコンテストが行われました。演劇の鑑賞は心身の健康に良い影響を与えると信じられていたので、それは患者を癒す手段としても使われました。


英語版のWikipediaの「エピダウロスの古代劇場」の項より

観劇が心身の健康に良い影響を与えると考えられていたようです。ここではギリシア悲劇ギリシア喜劇が上演されていたのでしょうか? 病気に苦しむ人たちは喜劇を見て気持ちを明るくしたのでしょうか? そして悲劇を見て主人公たちのつらい運命に感情移入していたのでしょうか? そしてそれらは本当に健康に良い影響を与えたのでしょうか? 私にはよく分かりません。


トロスという円形の建物については、山川廣司氏の「古代ギリシアのエピダウロス巡礼:アスクレピオスの治療祭儀」に以下のような説明がありました。

 治療の施設と推測されるトロスは紀元前4世紀に建てられた円形建造物であるが、その使用は今日でもよくわからない。基礎部分は同心円を描く本格的な迷宮をなしており、円は開口部で互いに結ばれており、一番外側の円から中心点に到達しようとすれば、ここ円に沿って全部を歩き尽くさねばならない。儀礼的周行を行った後で中心点に達するとそこから上部の建物に上がることが許された。


「古代ギリシアのエピダウロス巡礼:アスクレピオスの治療祭儀」山川廣司著 より

なかなか謎めいた建物です。


変ったところでは、古代エジプトの医神イムホテプを祭った神殿もありました。これはヘレニズム時代にギリシア人によってアスクレーピオスと同一視されたことで、祭られるようになったようです。イムホテプは歴史上の人物で、古代エジプトの宰相であり、階段式ピラミッドを考案した建築家でもありました。彼は死後、エジプト人によって神格化されたのでした。

(上:イムホテプ)