神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エペソス(10):ヘロストラトス

 BC 387年にスパルタとペルシア王国の間で締結されたアンタルキダスの和約によって、エペソスを含む小アジアギリシア都市はペルシア支配下に戻ることになりました。


 さて、今までエペソスにおけるアルテミス神殿の重要性については繰り返しご紹介してきましたが、そのアルテミス神殿がBC 356年に放火され、倒壊します。放火の犯人はヘロストラトスという者でした。彼は逮捕され、拷問を受けて、放火理由を白状しました。その理由というのが、現代的な理由でした。それは「有名になりたい」というものでした。すなわち「自分の名を不滅のものとして歴史に残すため、最も美しい神殿に火を放った」と彼は述べたのでした。現代だったら、自分の行為をYouTubeにアップしそうな人です。

(上:アルテミス神殿の遺跡。柱が一本残るのみ)


 彼の死刑はすぐに決まりましたが、問題は彼の意図でした。エペソスの当局は、同様な事件の再発を防ぐためには死刑だけでは足りないと判断しました。そして、彼の名前を言ったり書いたりした者についても死罪にすることにしました。こうすることで彼の望みである「自分の名前を不滅にする」ことを防ごうとしたのです。この刑罰を記憶抹殺刑といいます。


 ところが、今でも彼の名前が伝わっていることから分かるように、エペソス当局のこのもくろみは失敗しました。キオス生まれでアテーナイ育ちの歴史家で修辞学者のテオポンポスが彼の名前を自分の著書に書き残したのです。このため、彼の名前は彼を裁いた人々の名前よりも生き延びたのでした。エペソス市がいくら死罪で脅しても、その効力はエペソス市の領域にしかなかったので、エペソス人ではないテオポンポスにとってはヘロストラトスの名前を書きとめることは、どうということもなかったのでしょう。しかし、ネットもテレビもない古代ですから、誰かエペソスの人間から聞き出さない限り彼の名前は明らかにならなかったと思います。そうすると誰かこっそり教えたエペソス人がいたことになります。「ほんとは言っちゃいけないんだけど・・・」とか言いながら、名前を伝えたエペソス人がいたんではないでしょうか? そういう意味では記憶抹殺刑の効果はほとんどないようです。


(と書いていて気付いたのですが、記憶抹殺刑でもし効果があるものがあったとしたら、その結果、私たちはその名前を抹殺された人の名前を知らないことになるわけですから、ひょっとしたら私たちが知らないだけで効果のあった例も多かったのかもしれません。さらに、大量にあった記憶抹殺刑のうちの失敗したわずかな例だけを私たちは知っているだけ、ということもあり得る話なのかもしれません。う~ん・・・・・これは難しい問題ですね。)


 さて、この炎上事件はやがてアレクサンドロス大王に結び付いて、ひとつの伝説になっていきます。というのは、たまたまこのアルテミス神殿炎上の年が、アレクサンドロスの誕生の年だったので、きっと、誕生と同じ日にアルテミス神殿が炎上したのだ、という話になってきました。この伝説は、次のように語られます。「アルテミス神殿の炎上を女神アルテミスが止めることが出来なかったのは、アレクサンドロスが生まれるお産を助けるために(アレクサンドロスの生国である)マケドニアに出かけていたからだ。」
 似たような話をプルタルコスアレクサンドロスの伝記の中で伝えています。ただし、ヘロストラトスの名前をここに記さなかったのは、名前を残したいというヘロストラトスの意図に加担したくなかったからなのかもしれません。

 さてアレクサンドロスが生まれたのはマケドニア人がローオスとよんでいるヘカトンバイオン月の上旬の六日であるが、この日はエフェソスのアルテミス神殿の炎上した日である。これについてはマグネシアのヘゲシアスがその火事を消してしまうような冷たいことばを吐いた。すなわち彼は神殿が焼けるのも当然で、アルテミスがアレクサンドロスのお産で忙しかったからだと言ったのである。


プルタルコス「対比列伝」の「アレクサンドロス伝」 井上一訳 より

 アレクサンドロスはやがてペルシアを滅ぼし、大王と呼ばれることになるのですが、そのことから後付けされたと思われる伝説を同じプルタルコスが伝えています。

 当時エフェソスにいたペルシアの祭司(マゴス)たちは皆この神殿の災厄は別の災厄の前兆と考えて、顔を打ち、この日アジアに神罰と大きな禍いが生まれたと叫びながら走りまわった。


プルタルコス「対比列伝」の「アレクサンドロス伝」 井上一訳 より