神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エペソス(9):ペロポネーソス戦争終結まで

 ヘーロドトスの「歴史」を見てもトゥーキュディデースの「戦史」を見ても、エペソスについての記述があまりありません。登場しても単なる地名としての言及しかなかったりします。それで私はイオーニアの反乱(BC 498年)からペロポネーソス戦争終結(BC 404年)までのエペソスをうまく捕捉出来ずにいます。それでも何とかやってみましょう。


 まず、BC 480年、サラミースの海戦で敗北を喫したペルシア王クセルクセースは、従軍させていた自分の妾腹の息子たちを、ハルカリナッソスの僭主アルテミシアに託して、帰国させています。その際、アルテミシアに海路エペソスに向わせています。それはエペソスがペルシア帝国の王の道、つまり古代の高速道路、の終点に当っていたからでしょう。

さてクセルクセースはアルテミシアを賞めた上、自分の子供たちを連れてエペソスへ帰らせた。クセルクセースの妾腹の子が幾人か彼に同行していたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、103 から

 この時エペソスは、港に近づくアルテミシアの船を見たことでしょう。その船がアルテミシアのものであることは、その標識から見てとれたことでしょう。それ以前にクセルクセースは、敗戦を伝える飛脚をペルシアに送ったので、おそらくエペソス市民も敗戦のうわさを知っていたかもしれません。それでもエペソス市民の主だった者たちはアルテミシアの船から出てきたクセルクセースの息子たちをうやうやしく迎えたことでしょう。


 その1年後にはミュカレーの海戦があって、イオーニアからペルシア人は駆逐されます。その経緯をヘーロドトスは記述していますが、ミーレートスサモスの動向については記録しているもののエペソスについては何も書いていません。それほどエペソスは取るに足らない勢力だったとは私には思えません。どうしてヘーロドトスはエペソスのことを書かなかったのか不思議です。

 さて、ペルシアの支配を脱したエペソスはアテーナイが組織したデーロス同盟に参加します。エペソスはデーロス同盟に対して艦船を提供しなかったですが分担金を負担しました。


 その後ペロポネーソス戦争が始まるとエペソスはデーロス同盟の一員としてアテーナイに味方しました。しかし、BC 414年、アテーナイ軍とその同盟軍がシケリア(シシリー島)で惨敗したのち(いつの時点か分かりませんが)エペソスはスパルタ側に寝返りました。


 ところでトゥーキュディデースの「戦史」は未完で、ペロポネーソス戦争の最後まで、つまり、BC 404年にアテーナイが降伏するまでを記述してはいません。「戦史」はBC 411年の秋までで終わっています。「戦史」にエペソスの名前が登場するのは6回だけですが、偶然、「戦史」の最後にはエペソスが登場します。

 ティッサペルネースは、ミーレートスクニドス(ここからも、かれの守備隊は放逐されていたのである)のみか、アンタンドロスにおいてまでペロポネーソス側の実力干渉がおこなわれているのを知ると、かれらが自分に対してあらん限りの中傷を加えているに違いないと思い、それのみかさらに重大な損害を自分に加えるのではないか、と危惧を抱いた。また、パルナバゾスがかれらを味方に引き入れ、より少ない時間と費用によって、より大なる戦果をアテーナイ勢から奪うのではないかと、心中平らかならざるものがあった。そこでかれはペロポネーソス勢に対してアンタンドロスにおけるかれらの行状を咎め、あわせてポイニキア船隊の一件やその他諸々の行き違いをめぐって自分が受けている中傷や非難に対しては、できうる限り体裁のよい申し開きをなさんがために、ヘレースポントスの陣営にまで赴くことを思い立った。そして先ずエペソスに到着すると、アルテミス女神に犠牲を捧げた・・・・。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8、最終 から

 これだけでは何のことか分かりませんが、ティッサペルネースはペルシアの総督(サトラップ)の一人です。この時点でペルシアはスパルタに肩入れしていたのですが、アテーナイのアルキビアデースに、スパルタとアテーナイが共倒れになるのがペルシアの国益になると説得されて、スパルタへの援助を渋りだしたのでした。それを察知したスパルタ側(文中の「ペロポネーソス側」)はティッサペルネースの言うことを無視して勝手に行動を始め、報酬を約束しているもう一人のペルシア総督であるパルナバゾスのいる、ヘレースポントスに向ったのでした。ティッサペルネースは、自分にとってのライバルにあたるパルナバゾスがスパルタ勢を利用して手柄を立てるのを恐れ、何とかスパルタ勢を自分のほうに引き寄せようと考え、ヘレースポントスに宿営しているスパルタ勢の許を訪れようとして、その途中でエペソスに寄った、という記述です。そしてエペソスのアルテミス神殿で犠牲を捧げた、ということです。ここでもアルテミス神殿が出てくるところに、エペソスにおけるアルテミス神殿の重要性が改めて感じられます。


 ところで私は、ペルシア人がアルテミス神殿に犠牲を捧げた、というところを不思議に思います。ペルシア人多神教の民であれば、他国の神であっても崇拝することはあると思うのですが、当時のペルシアの宗教はゾロアスター教ではなかったでしょうか? ゾロアスター教一神教なので、他の神々を排除するものだと思うのですが、どうなんでしょうか?


 さて話は変わりますが、その頃、エペソス生まれでアテーナイに移住して、その画力で有名な画家(「絵師」と言ったほうがよいかもしれません)がいました。名前はパラシオスと言います。クセノポーンとソークラテースの対話の中でこの名前が登場するそうです。時代は下るのですが、ローマ帝政の時代、大プリニウスは自著「博物誌」の中で、このパラシオスとゼウクシスの画力競争について記述しているそうです。このゼウクシスというのも写実的な絵で、パラシオスと同時代に評判高かった絵師でした。


 ある日、戸外でゼウクシスが自分の絵をパラシオスに見せました。それはブドウを描いた絵でしたが、その絵を見て鳥たちが本物のブドウだと思い、空から舞い降りてそのブドウを食べようとしました。しかしそれは本物のブドウではないので鳥たちはその絵をくちばしでつつくしかありませんでした。その一部始終を見ていたパラシオスは今度はゼウクシスを自分のアトリエに案内しました。アトリエに着くとパラシオスはゼウクシスに、カーテンを脇へ寄せて自分の絵を見てくれるように頼みました。ゼウクシスがそのカーテンを寄せようとした時、それがカーテンではなくカーテンの絵であるのに気づきました。それでゼウクシスはパラシオスのほうが自分より技量が上だと認めた、ということです。というのは、自分は鳥をだましたが、パラシオスは鳥よりも知恵のある自分をだましたから、だというのです。(私には鳥をだますほうがより難しいと思われますが・・・・)
 それはともかく、この逸話は美術史上、「だまし絵」について言及された最も早い例の一つだそうです。