神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テーラ(5):バットス

テーラではその後、街づくりが順調に進んでいったようです。残念ながらテーラースの一行がテーラを建設して(BC 9世紀と推定されています)からBC 630年頃までの出来事は今に伝わっていません。そこで話をBC 630年頃まで進めます。この頃、テーラではテーラースの子孫であるグリンノスが王でした。

ある時この王は、自国の民の将来について神の助言を得るためにギリシア本土のデルポイにある有名なアポローンの神託所に詣でました。神を最も盛大にお祭りする儀式として百牛の犠牲(ヘカトンベー)というのが古代ギリシアにはありましたが、グリンノス王はこの百牛の犠牲のために牛百頭を連れて(本当に?)デルポイに詣でたのでした。牛も百頭ですから人間も王一人ではなく、多数の市民が随行していたようです。

 かのテラスの後裔でテラ島の王であった、アイサニオスの子グリンノスは、国から牛百頭の生贄を持参してデルポイへ詣でたことがあった。他の市民も彼に随行しており、その中にはミニュアイ人のエウペモスの子孫で、ポリュムネストスの子バットスも混っていた。


ヘロドトス著「歴史」巻4、150 から



上の引用に登場したエウペーモスというのはアルゴナウタイの英雄の一人で、海の神ポセイドーンの息子でした。海の神の息子ですので、海の波の上を歩くことが出来たといいます。その子孫がレームノス島に代々住み、その後スパルタに移り、それからテーラースと一緒にテーラ島に移り、テーラ島でもその子孫が代々続いてポリュムネーストス、バットスまで続いた、ということです。

テラの王グリンノスが国民の将来について神託を伺うと、デルポイの巫女はリビアに町を創設せよと託宣を下した。グリンノスが答えていうには、
「神よ、私はすでに年をとりすぎ、旅に出るにも体がいうことをききませぬ。どうかここにおりますもっと若い者に、その仕事をお命じ下さい。」
 彼はそういいながら、バットスを指したのである。
 この時はそれだけのことで、テラ人の一行はそれから帰国し、神託のことは一向に顧みなかった。彼らはリビアがそもそもどこにあるのかも知らず、また行先の不確かなところへ移民を送る冒険をおかす気にもならなかったからである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、150 から

上の引用に「デルポイの巫女」とありますが、これはアポローンの神託を告げる役目の巫女でした。デルポイの託宣所では巫女が神託を告げることになっていました。

さて、グリンノス王がバットスを指差したのは意図してのことだったのでしょうか? それともたまたまのことだったのでしょうか? それとも何かの神意によるものだったのでしょうか? それはよく分かりませんが、話を続けます。

 しかしそれから七年の間テラには雨がなく、その間にテラ島の樹木は一本を除いてことごとく枯れてしまった。テラ人が神託に問うと、巫女は(再び)リビアに植民すべきことを答えたのである。テラ人にはこの天災に対処するほかの手段もなかったので、クレタ島に使いを送り、クレタ人またはクレタ在留の外人で、かつてリビアへ行ったものがないかと探索させた。派遣された者たちはクレタ島内を隈なくめぐり、イタノスの町までも足をのばしたが、ここで彼らはコロビオスという名の紫貝採りの漁夫にめぐりあった。この男のいうところでは風に流されてリビアへ行ったことがあるが、それはリビアのプラテアという島であったという。テラ人はこの男を謝礼金で釣って説き伏せ、テラへ連れて帰ると、はじめは少数の人間が下見のためにテラを出帆していった。コロビオスはテラ人たちを例のプラテア島へ案内したが、テラ人は数か月分の食糧を置いてコロビオスをこの島に残し、自分たちは島のことを国許へ報告するために、急いで帰っていった。(中略)
 さてテラ人はコロビオスを島に残してテラへ帰ると、自分たちがリビア沿岸の島に植民地を拓いたことを報告した。テラ人は兄弟二人のうち籤に当った方の一人がゆくこととして、七つある地区の全部から移民を送ることに決め、さらにバットスを移民団の指導者ならびに王とすることを決議した。こうしてテラ人は二隻の五十橈船をプラテア島に送ったのである。(中略)
 彼らはこの島に二年間住んだが、格別好い運にも恵まれなかったので、一人だけをそこに残して残りの者は全部デルポイに向かって発ち託宣所を訪れると、リビアに植民したが一向に事態は好転せぬことを述べて神託を求めた。これに対し巫女は次のような託宣で答えた。
「行ったこともない汝が、行ったことのあるわしよりも羊飼うリビアをよく知っておるというのならば、汝の知恵にはわしも舌を巻くぞ。」
 この託宣を聞いてバットスの一行は元の島へ引き返した。彼らがリビアの本土に達するまでは、神が彼らを植民の義務から解放してくれぬことが判ったからである。そこで島に帰ると残していった男を収容し、島に相対してリビア本土にある、アジリスという土地に植民した。


ヘロドトス著「歴史」巻4、151~157 から


このあと彼らはアジリスに6年間住んでいたのですが、リビア人がもっといい場所があるからと彼らに別の場所を紹介したため、そこに移りました。そこがのちにキューレーネーという町になり、この町は大いに繁栄したのでした。そしてテーラとキューレーネーの間には友好関係が保たれたのでした。これはギリシア世界では珍しいことです。植民市と母市との関係は古代ギリシアにおいては希薄なのが普通でした。植民市と母市が敵対関係にあるというのも珍しくありません。そんな中でテーラとキューレーネーの友好関係は珍しいものでした。バットスは王としてキューレーネーを40年間統治しました。


キューレーネーの遺跡