神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テーラ(6):キューレーネー植民の裏側


さて、キューレーネーが繁栄したため、この植民の物語はハッピーエンドで終わっているように見えますが、仔細に見ていくとなかなか深刻な状況だったように見えてきます。
たとえば、前回の「テーラ(5):バットス 」で、リビアを偵察するためにプラテア島に向かったテーラの人々が、クレータの人コロビオスをプラテア島に残して、一旦テーラ島に戻った話をご紹介しましたが、実はこのクレータ人コロビオスについて以下の話があります。

 しかしテラ人は約束の期限がきても戻ってこず、コロビオスの生活の資は全く尽きてしまった。やがてコライオスという男が船主であったサモスの船が、エジプトに航行中漂流してこのプラテア島に着いた。サモス人たちはコロビオスから一部始終をきくと、一年分の食糧を残してやった。当のサモス人はこの島を発ち東風に流されながらもエジプトを目指して航行を続けた。(中略)
 コライオスのこの行為が契機となって、キュレネ人およびテラ人とサモス人との堅い友好関係が結ばれることになったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、152 から

「キュレネ人およびテラ人とサモス人との堅い友好関係が結ばれ」たことはめでたいことですが、なぜテーラの人々は約束の期限がきても戻ってこなかったのでしょうか? たぶん、植民に出す人々を決めるのに手間取ったからではないでしょうか?


また、このようなことも考えてみました。「テーラ(5):バットス 」での物語で最初のグリンノス王のデルポイ参拝の話がなかったとしたらどうでしょうか? つまり、この部分はあとで出来た作り話だったとしたらどうでしょうか? そうすると話は、

 七年の間テラには雨がなく、その間にテラ島の樹木は一本を除いてことごとく枯れてしまった。テラ人が神託に問うと、巫女はリビアに植民すべきことを答えたのである。テラ人にはこの天災に対処するほかの手段もなかったので・・・・


ヘロドトス著「歴史」巻4、151 から

というところから始まることになります。つまり「七年の間テラには雨がなく、その間にテラ島の樹木は一本を除いてことごとく枯れてしまった」という状況が最初にあり、次に「リビアに植民すべき」という話が来ます。そして話は次のように続きます。

 さてテラ人はコロビオスを島に残してテラへ帰ると、自分たちがリビア沿岸の島に植民地を拓いたことを報告した。テラ人は兄弟二人のうち籤に当った方の一人がゆくこととして、七つある地区の全部から移民を送ることに決め、さらにバットスを移民団の指導者ならびに王とすることを決議した。こうしてテラ人は二隻の五十橈船をプラテア島に送ったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、153 から

こう考えてみると、飢饉のための口減らしとしてリビアへの植民が計画されたことが想像出来ます。さらに想像をたくましくすれば、テーラの政府は植民に人を派遣することをすでに決定しており、デルポイにはどこに植民すればよいかだけを尋ねた可能性もあります。植民先をデルポイに尋ねることは他の伝説でよく見受けられることだからです。

またヘーロドトスは、これはキューレーネー人の伝えるところで、テーラ人の所伝とは異なる、と注釈して以下の伝説を述べています。

 そこでテラ人は二隻の五十橈船とともにバットスを送り出した。この一行はリビアに向ったものの、ほかにどうしてよいか判らぬままに、再びテラへ引き返した。しかし本国のテラ人は上陸しようとする彼らに石を投げつけ、上陸することを許さず、リビアへ引き返せといった。そこで一行も止むなく船を返し、前述のようにプラテアというリビア沿岸の島に植民したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、156 から

どうでしょうか? テーラ人が人減らしをしたいという切実な欲求が見てとれるのではないでしょうか? 
しかし、と私はここで思い直します。これだけでテーラ人のことを悪く思ってはいけないかもしれないと、です。時代は下るのですが、BC 4世紀のキューレーネーの法令の中にこのキューレーネー植民の当時のテーラ政府の決議文が引用されているとのことです。私はこの文章が本当に当時にさかのぼるものであるのか疑問を持っているのですが、さかのぼる可能性もあるので参考までにご紹介します。

もしも定住地を確保できず、テラ人も彼らを救援できぬ場合には、苦境が五年に及んだ段階で、その地を去り、恐れることなくテラなる自己の財産へ復帰し、市民となるべきこと。


藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」より

もしこの文章が本当に当時のものであるならば、テーラ人は何が何でも派遣者をテーラから追い出すつもりはなく、上記の引用にあったような「石を投げつけ、上陸することを許さず」という行動に出たのは、5年どころか派遣してすぐに戻ってきたことに対して契約違反だと考えて上陸を拒否したのかもしれません。それにしても上記の「石を投げつけ、上陸することを許さず」という伝承がテーラ人の方には伝わらず、派遣された側のキューレーネー人の方にだけ伝わっているのは、人間世界のありようの一端を示しているようにも思えます。
最後に上記に引用した決議文の別の箇所をご紹介します。当時の植民派遣に対する人々の思いが感じられる文章です。

 故国に残留するものと航行する者とは、以上の条件につき誓約を交わし、これに違反して遵守せざる者に対しては、リビアへ植民する者であれ、故国に残留する者であれ、呪いをかけた。男も女も少年も少女も全員が集合して、蝋人形を造り、呪いの言葉を浴びせて、それらを焼いた。右の誓約を守らず違反した者は、本人も子孫も財産も、これらの人形の如く溶け崩れ、他方、この誓約を守る者は、リビアへ航行する者にせよ、テラに残留する者にせよ、本人にも子孫にも多くの福があるようにと。


藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」より