神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エペソス(12):アントニウス

 ここまでのエペソスの歴史で1つ特徴的なのはアルテミス神殿の重要さです。もうひとつは、変人が多いということです。悪口詩人ヒッポナクス、人間嫌いの哲学者ヘーラクレイトス、有名になりたいがために死をも恐れず放火したヘロストラトス、と、この町には変人を生み出す土壌がありそうです。しかし、時代が下って、ローマの支配下に入ると、こういう変人はもう現れないようです。


 さてBC 46年、エペソスはエジプト王家の王女を迎えます。彼女の名前はアルシノエ、あの有名なクレオパトラの妹でした。アルシノエは、エジプトの王位争いに関与して負け、ここエペソスに送られたのでした。その処置をしたのはこれまた有名なローマの将軍ユリウス・カエサルです。


 その経緯はと言いますと・・・・。

 ユリウス・カエサルポンペイウスとローマの支配権をめぐってファルサロスの戦いを行ったあと、負けたポンペイウスはエジプトに逃げました。カエサルポンペイウスを追ってエジプトに向いましたが、ポンペイウスはエジプトの当時の権力者である宦官ポテイノスによって殺されていました。当時、エジプトでは政権が安定せず、クレオパトラとその弟のプロレマイオス13世がエジプトの王位を争っていました。この2人の父親で前の王であったプトレマイオス12世の遺言には、この姉妹が共同統治することとありました。カエサルは前王の意向に沿った解決を進めるのですが、それを不満とする弟プトレマイオス13世はカエサルクレオパトラに対して戦端を開きます。というかプトレマイオス13世はまだ16歳で側近の意向に左右されやすかったので、実際に戦端を開いたのはプトレマイオス13世の側近たちだったでしょう。クレオパトラの妹でプトレマイオス13世の姉であったアルシノエは弟の味方をします。しかし、相手は戦巧者のカエサルです。初戦はプトレマイオス13世側が優勢でしたが、最後に勝利を得たのはカエサルクレオパトラでした。若いプトレマイオス13世は自殺し、アルシノエはローマ軍の捕虜になりました。彼女はローマに連れてこられ、カエサル凱旋式に敗者として檻に入れられて列に加えられ、ローマ市内を引き回されました。その後は、殺されることはなく、ただ、クレオパトラの脅威にならないようにとの配慮から、エペソスに軟禁されたのでした。


 ところがカエサルが2年後に暗殺されてしまいます。その後、カエサルの部下であったマルクス・アントニウスカエサルの後継者を目指して勢力を伸ばしました。このアントニウスがエジプトでクレオパトラに出会い、クレオパトラにぞっこんとなります。そんなアントニウスが、クレオパトラの依頼を受けて、アルシノエを部下を使って殺してしまいました。エペソスには、アルシノエの墓と伝えられるものがあります。



アントニウス

 このアントニウスは、軍事についてはなかなかの才能の持ち主ですが、政治的な感覚はあまりなかったようです。性格はよく言えば「鷹揚」、悪く言えば「大雑把」でした。政敵のキケロは、こう評しています。

肉体が頑丈なだけが取り得の無教養人で、酒に酔いしれ下品な娼婦と馬鹿騒ぎするしか能のない、剣闘士なみの男

それでもその気取らない性格が、兵士たちに好かれていました。


 アントニウスクレオパトラに会う以前のことですが、エペソスに軍勢を引き連れてやってきたことがあります。それは、オクタウィアヌスとの勢力争いの最中のことでした。オクタウィアヌスは、カエサルの遺言によってその後継者に指名されていました。そこでアントニウスは、オクタウィアヌスとの決戦に備えて、エペソスをはじめとするこの地方のギリシア都市から軍資金を集めようとしてエペソスにやってきたのでした。

 アントニウス自身がエペソスに入ると、女たちはバッコスの祭女たちに、男と子供はサテュロスとパーンに扮装して、彼の前を先導し、市は蔦の葉、祭の杖、手琴、笙に充たされ、アントニウス歓喜と恩恵を授ける神ディオニソスとして、かつぎあげた。


プルタルコス「対比列伝」の「アントニウス伝」 秀村欣二訳 より

 バッコスはディオニソスディオニュソス)の別名です。そしてディオニュソスはワインの神です。エペソス市民はアントニウスをワインの神様になぞらえて迎え入れたのでした。バッコスの祭女はバッカイと言い、踊り狂いながら神を讃えるのを常としていました。サテュロスとパーンはともにディオニュソスの従者たちで、上半身は人間の男、下半身はヤギの姿をもっていました。
 エペソス市民は、ローマの支配下に入って年月が浅いころにはローマに対して反抗もしていたのですが、それもかなわないことを悟ると、その時その時のローマの有力者のご機嫌をとる卑屈な態度を身に着けるようになっていったたようです。

なるほど彼は全くそのようであったであろうが、多くの人々には生肉を食らう野蛮なディオニソスであった。というのは彼は名門の人々から財産を奪い、それをおべっか使いや悪党に与えたからである。またある者たちはまだ存命中の多くの人々を死亡者として財産を願い出て、それを手に入れた。さらにマグネシアのある人の家を一回の食事で評判をとった料理人に与えたとも言われている。


プルタルコス「対比列伝」の「アントニウス伝」 秀村欣二訳 より

「生肉を食らう野蛮なディオニソス」というところの「生肉を食らう」というのはしばしばディオニュソスに付けられる形容詞です。ディオニュソスの祭儀は狂乱のうちに行われるとされ、その中で「生肉を食らう」ことあったらしいのです。ここではアントニウスの乱脈ぶりの例えとして出てきています。



オクタウィアヌス


 その後、いよいよオクタウィアヌスと対決するというBC 33年にもアントニウスはエペソスに来ます。この時はエジプト女王クレオパトラも同行していました。まず、アントニウス配下のローマ兵とクレオパトラ配下のエジプト兵を集結させ、さらにアジア諸国の兵を集めました。

彼自身はクレオパトラを伴ってエペソスに来た。ここには海軍があらゆる方面から集結して輸送船をも加えると八百隻に達したが、そのうちクレオパトラは二百隻と他に二万タラントンと戦争の期間中全軍に対する糧食を供出した。(中略)
 諸王、諸公と四分封領主、シリアとマイオティスとアルメニアとイリリクムとの間にあるすべての民族と都市に戦争のための兵員物資を送り届けるように申し入れた(中略)
 さてアントニウスのもとに戦いのために集結した軍勢は、戦艦が五百隻を下らず、その中には多くの八段橈船や十段橈船があって、豪華に、祭礼のように飾ったものもあり、歩兵は十万、騎兵は一万二千を数えた。また共に戦った属国の王にはリビアのボッコス、上キリキアのタルコンデモス、カッパドキアのアルケラオス、ハフラゴニアのフィラデルフォス、コンマゲネのミトリダテス、トラキアのサダラスがいた。


プルタルコス「対比列伝」の「アントニウス伝」 秀村欣二訳 より

アントニウスの軍はここから西進し、アドリア海のアクティウムでオクタウィアヌスと対決します。そして敗れてしまいます。その後の話はエペソスとは関係がないので、省略します。


 勝ったオクタウィアヌスは初代のローマ皇帝になります。名前もアウグストゥスと呼ばれるようになります。このアウグストゥスローマ帝国の各属州を再編する際に、エペソスをアジア属州の首都としました。アジア属州の範囲を以下の図に示します。

 エペソスはその後、繁栄の時代に入り、属州総督の拠点としても商業の中心としても重要な都市になります。エペソスは、ローマ帝国の中でも首都ローマの次に位置するほどの都市になりました。