神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

テーラ(7):その後のテーラ

BC 6世紀、テーラはギリシア本土のアテーナイやコリントスと、エーゲ海東岸のイオーニア地方あるいはそれに近いロドス島、とを結ぶ貿易の中継点として栄えました。BC 515年にスパルタの王子ドリエウスがリビアに植民市を拓こうとした時にその水先案内人を務めたのはテーラ人でした。それは、テーラとキューレーネーの関係からテーラ人がリビアの地理に詳しいと思われたからだと思います。

BC 498年にはイオーニアの反乱がエーゲ海東岸で発生しますが、テーラはそれに巻き込まれることはありませんでした。BC 490年の第一次ペルシア戦争では、ペルシア海軍はサモス島イカリア島、ナクソス島、レーナイア島(デーロス島のすぐ西の島)、エウボイア島、ギリシア本土のマラトーン、と島伝いに進んだので、テーラにはペルシア海軍はやってくることはなく、戦いにも巻き込まれませんでした。BC 480年の第二次ペルシア戦争では、ペルシア軍はトラーキアの方から海岸線に沿ってアテーナイに進んだので、この時もテーラは無事でした。その後テーラはスパルタの植民市であったためか、アテーナイを中心とするデーロス同盟には参加せず、BC 431年にペロポネーソス戦争が始まるとスパルタ側につきました。そのため戦争中、アテーナイによる占領を受けました。しかし、BC 405年のアイゴスポタモイの海戦でアテーナイ側が敗北すると、テーラにおけるアテーナイの占領も終わりました。ペロポネーソス戦争よりものちの時代に生きた、有名な哲学者アリストテレースはその著作の中で、テーラでは最初の植民者たちの子孫が血統に秀でた者たちであるとされ、重い役についている(「政治学」第4巻4章5)、と述べています。アリストテレースの記述からするとテーラはBC 4世紀には貴族政を採用していたと思われます。そしてテーラースとともに植民した人々の子孫がいまだに権力を握っていたようです。


その後テーラはさまざまな国の支配下に入ったのちローマの支配下に入ります。北にあるデーロス島がローマの支配下に入って早々放棄されたのとは対照的に、テーラはローマが帝政になったあとも繁栄を続けました。そしてAD 8世紀までこの町は存続したのでした。現在は、ここは「古代テーラ」と呼ばれる遺跡になっています。