神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ハリカルナッソス(5):傭兵隊長パネス

ペルシアの2代目の王カンビュセースの治世の頃の話です。当時、カンビュセースはエジプト征服を企んでいましたが、当時のエジプト王はアマシスでした。

さて、アマシスは、ギリシア人とカーリア人を傭兵として重用していました。エジプトがギリシア人とカーリア人を傭兵として用いるのはBC 664年のプサンメティコス王の頃からのことであり、長い伝統があります。このギリシア人の中にパネスというハリカルナッソス人がいました。彼は「傭兵隊の中ではかなり重要な地位を占めて」いたとのことなので、タイトルを「傭兵隊長パネス」としました。この頃のギリシア人はよく自分の国を飛び出して異国で傭兵として働いていたようです。ミュティレーネーの詩人アルカイオスの兄アンティメニダスがバビロニアネブカドネザル2世の軍隊の中で傭兵として働いていたことは「ミュティレーネー(10)」で紹介しました。
では、ヘーロドトスが伝えるパネスの物語を紹介します。

アマシスの傭兵の中に、ハリカルナッソス生れで名をパネスという、才覚もあり武勇もすぐれた男がいた。この男がアマシスに何か含むところがあって、カンビュセスに面接したいという望みから、船でエジプトを脱出したのである。この男は傭兵隊の中ではかなり重要な地位を占めており、またエジプトの事情に精通していたこともあって、アマシスは彼を捕えようと必死になり、宦官の中で最も信頼できる男を派遣して三段橈船で逃亡した男を追跡させた。その宦官はリュキアでパネスを捕えたが、エジプトに護送することはできなかった。パネスによって巧みに瞞着されたのである。すなわちパネスは番兵を酒で酔い潰しておいてペルシアへ逃れたのである。あたかもこれはカンビュセスがエジプト遠征にかかろうとしている時で、彼は進路に関して水のない地域をいかにして越えるかに苦慮していたが、そこへパネスが現われて、アマシスに関するさまざまな情報を与えるとともに、遠征の行路についても説明し、アラビア王に使者を送って通過の安全を確保してくれるように頼むがよいと教えた。


ヘロドトス著「歴史」巻3、4 から



傭兵隊長パネスがエジプト王アマシスにどのような恨みがあったのかを、ヘーロドトスが語っていないので事情が分かりません。とにかくパネスはエジプト王に復讐するためにエジプトを脱出してペルシア王カンビュセースの許にいき、エジプト侵攻の手助けをしようとしたのです。当時のギリシア人の個人としての行動力の高さがかいまみえます。さてカンビュセースは、エジプトに侵攻する際、遠征軍が途中の砂漠地帯でどうやって水を確保を出来るかについて、頭を悩ませていたのですが、パネスの提案はアラビア王に使者を送って協力を求めることでした。これはどういうことかというと、以下のようなわけでした。

カンビュセースは例のハリカルナッソス人の傭兵の話をきいてアラビア王の許へ使者を遣わし、道中の安全確保を依頼したのであるが、互いに誓約をとり交した後、その目的を達したのである。
(中略)
さてカンビュセースからの使いのものに結盟の誓いをしたアラビアの王がどのような策をこらしたかというと、駱駝の革製の袋に水を満たし、これをあるだけの生きた駱駝の背に積み、これを曳いて砂漠地帯に出向き、ここでカンビュセースの軍隊の到来を待ち受けたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、7~9 から

このようなことを予めパネスが知っていたというのが興味深いです。武勇に優れているだけでなく、きっと知的好奇心が強かったのでしょう。

このようにしてカンビュセースの軍隊をエジプトに導いたパネスですが、そこで悲惨な運命が待ち受けていました。

ナイル河の世にいうペルシオン河口には、アマシスの一子プサンメニトスが、カンビュセスを待ち構えて陣営を張っていた。というのはカンビュセスがエジプトに軍を進めた時、アマシスはすでにこの世にはなく、四十四年間の統治ののち世を去っていたのである。(中略)
さて砂漠地帯を通過してきたペルシア軍が、戦いを交えんものとエジプト軍の近くに陣営を構えた時、ギリシア人およびカリア人から成るエジプト王の傭兵部隊は、外国軍隊をエジプト攻撃に誘導したパネスの行為に憤って、彼を懲らすために次のような手段を案出した。パネスにはエジプトに残してきた数人の子供があったが、傭兵たちはこの子供たちを父親の目の届く陣営内に引き立ててきて、両軍の陣地の中間に混酒器を据えた。それから子供たちを一人ずつ引き出しては咽喉を裂きその血を混酒器で受けたのである。子供を全部屠り終ると、混酒器の中へ酒と水を注ぎ、傭兵たちは一人残らずこの血を啜ってから合戦に入った。戦いは激戦となり両軍とも多数の戦死者を出したが、遂にエジプト軍は敗走したのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻3、10~11 から

その後パネスがカンビュセースからこの不幸を埋めるほどの褒賞を得ることは出来たのか、そしてペルシア領内で優遇されて過したのか、それともいずれかの戦争で戦死してしまったのか、それともまた別の運命が待ち受けていたのか、残念なことにヘーロドトスが何も記していないので分かりません。パネスのその後が気になるところです。ところでカンビュセースのエジプト侵入はBC 526年のことでした。このあと、エジプトはペルシアの支配下に置かれます。


(左:プサンメニトスを捕えるカンビュセース王)