神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ハリカルナッソス(2):ハリカルナッソスの建設

ハリカルナッソスの起源について英語版のWikipediaは以下のように書いています。

ハリカルナッソスの建設はさまざまな伝承の間で議論されているが、それらは、ハリカルナッソスがドーリア人の植民市であるという主要な点については意見が一致しており、そのコイン上の、メドゥーサの頭部やアテーナーや、ポセイドーンや三つ又のような像は、その母市がトロイゼーンアルゴスであるという意見を支持している。住民は、ストラボンが述べたように、ポセイドーンの息子のアンテスを彼らの伝説上の建設者であると受入れたようにみえ、アンテアダイの称号を誇りにしていた。


英語版Wikipediaの「ハリカルナッソス」の項より

その建設に関する伝承の1つを藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」に見つけましたので紹介します。この本は古代ローマの建築家ウィトルウィウスの記述を引用しています。それを引用するので、ここでは孫引きになります。

・・・・植民の当初の事情について、前一世紀後半のローマの建築家ウィトルウィウスは、次のような伝説を記述している。

メラスとアレウアニアスがアルゴストロイゼンから共同で植民したとき、バルバロイのカリア人やレレゲス人を追出した。それで彼らは山へ逃げ、集合してギリシア人を襲っていた。しかし、その後、植民者の一人がサルマキス泉の近くに良い宿屋を建てた。そこの水が良質であったため、それに引きつけられて原住民が宿屋へ来るようになって、ギリシア人と交わることになり、野蛮な習性を棄てて文明化した。
                  (「建築書」 二巻・八章、一二)


「歴史の父 ヘロドトス」 藤縄謙三著 より

ハリカルナッソスが建設されたのはだいたいBC 11世紀頃と推定されているので、このウィトルウィウスの記述はそれより千年も後のことです。ですので、どこまで信用出来るか分かりません。上の引用に出てくる「バルバロイ」というのは日本語でいう「夷狄」のことで、ギリシア人は、ギリシア人以外の民族を皆「バルバロイ」と呼んでいます。「カリア人」と「レレゲス人」はどちらもその地の原住民です。この両者は他の古代の記述でもしばしば混同されていて両者の区別はよく分かりません。
さて、この本「歴史の父 ヘロドトス」には、ギリシアの古典時代のハリカルナッソスの碑文に「サルマキス人」という言葉が登場することを記していて、それが上記のウィトルウィウスの記す「サルマキス泉」と関係していると説明し、「サルマキス人」をカーリア人のことと推定しています。さらに上記の古典時代の碑文からハリカルナッソスにはギリシア人の民会のほかに「サルマキス人(=おそらくカーリア人)」の民会があり、両者が並存するような特異な政治体制だったことが読み取れるそうです。
以前ミーレートスの建設を述べたような、ギリシア人がカーリア人の男性を殺戮してその妻や娘を妻にした、というような血なまぐさいことは、ハリカルナッソスの建設には起きず、侵入してきたギリシア人と原住民のカーリア人と共存がある程度図られたようです。


ところで上記のウィトルウィウスの記述に登場した「サルマキス泉」にはその後、奇妙な伝説が付きます。高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」のヘルマプロディートスの項を引用します。

ヘルマプロディートス

  • (中略)彼(ヘルマプロディートス)はヘルメースとアプロディーテーとのあいだに生まれた子供で、小アジアのイーデー山中でニンフたちに育てられて、美少年に成長、カーリアのハリカルナッソスHalikarnassos近くのサルマキスSalmakisの泉で沐浴中、そのニンフに恋された。拒まれたニンフは彼に抱きつき、永遠に一体となりたいと神々に祈ったところ、両者は一体となり、男女両性となった。一方ヘルマプロディートスはこの泉に浴する者は性の力を失うように天に願い、この力は前1世紀にもこの泉になお残っていたという。


高津春繁著 ギリシアローマ神話辞典 より

このヘルマプロディートスという少年は、神ヘルメースの名と女神アプロディーテーの名を合成したもので、ギリシア古典期より後のヘレニズム時代に作られた神のようです。この話は神話というよりかは退廃的な伝説のように思えます。