神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ミュティレーネー:目次

1:はじめに

ミュティレーネー(現代の発音ではミティリーニ)は、エーゲ海に浮かぶ島レスボスの都市で、古代ギリシアの時代にもこの島のすでに主要な都市でした。紀元2世紀頃のローマ帝国の時代の小説「ダフニスとクロエー」の冒頭にはミュティレーネーの町の叙述があります。・・・・


2:トロイア戦争の頃

まずギリシアの文学の最古のものとされているホメーロス叙事詩イーリアスオデュッセイアーから検討していきましょう。これらの叙事詩にはミュティレーネーの名前は登場しなかったと思います。では、もう少し範囲を拡げて「レスボス島」が登場するかどうかを・・・・


3:アイオリス人の到来

ミュティレーネーのあるレスボス島は、トロイア戦争の頃はギリシア人が住んでいないようでした。では、ギリシア人がレスボス島にやってきた時の様子が何か伝承に残っているでしょうか? 高津春繁の「ギリシアローマ神話辞典」で調べたところ、断片的で異説の多い伝承・・・・


4:アルゴー号の冒険

アルゴー号の冒険の物語の基本的な構造は、娯楽物語の王道を押さえています。つまり、イアーソーンという男が、この世の果て(当時のギリシア人にしてみたら黒海東岸のコルキスはこの世の果てと感じたことでしょう)にあるという宝物を手に入れるため、仲間を集めて・・・・


5:ヘレースポントスの確保

さて、アルゴー号の出航という幸福な場面でこの物語から離れ、レスボス島やその東岸にあるミュティレーネーに戻りましょう。前にもお話ししましたように、伝説によればアルゴ号はレスボス島にはやってきませんでした。レスボス島と・・・・


6:ペンティリダイ(ペンティロスの子孫)

ミュティレーネーの建設についてネットをいろいろ検索していたところMuzaffer Demirという方(どうもトルコ人の教授らしいです)の英語の論文「Making sense of the myths behind aiolian colonisation(アイオリス人の植民活動の背後にある神話を理解する)」を見つけました。その論文の中にBC 1世紀の地誌学者ストラボーンからの引用がありました。それを以下に引用します。実際、アイオリス人の植民活動はイオーニア人の植民活動よりも4世代前に行われたが、遅れが生じ、より長い時間がかかったと言われています。なぜなら、オレステースが遠征の最初の指導者だったと・・・・


7:ピッタコス

ミュティレーネーの王位を独占していたペンティリダイ一族はやがて勢力が衰え、BC 7世紀頃には他の貴族たちと抗争するようになったようです。ペンティリダイについてはなかなか情報がないのですが、アリストテレース政治学に断片的にある以下のような記述は、背景が・・・・


8:サッポー

ピッタコスより10歳程度年下であったのが詩人のサッポー(サッフォーとも呼ばれます)でした。サッポーは古代ギリシアの有名な詩人の一人で、のちの時代のことですが、哲学者のプラトンはサッポーのことを「10番目のムーサ(芸術の女神)」と呼びました。・・・・


9:オルペウスの竪琴

サッポーまで話を進めたのに、歴史時代からまた神話伝説の時代に戻ってしまうのですが、ここでオルペウスとレスボス島にまつわる伝説を紹介したいと思います。なぜレスボス島には芸術家が輩出するのか、といういわれを説く話です。ミュティレーネーにはサッポーだけで・・・・


10:アルカイオス

サッポーより10歳程度年下なのが詩人のアルカイオスでした。この人の詩も今まで読んだことがなかったのですが、今回、調べたところどうも「荒々しい」詩のようです。アルカイオスの戦争と政治体験は現存する詩の中に反映されていて、その中でも断然多いのが軍隊に関する・・・・


11:シゲイオンのゆくえ

さて、アテーナイがシゲイオンを占領したために、ミュティレーネーは近くのアキレイオンに植民市を建て、そこに軍を置いて、アテーナイ勢との小競り合いを続けていました。ところで、このアキレイオンというところは、ここにトロイア戦争でのギリシア側の英雄だったアキレウスの墓・・・・


12:ペルシアへの服属

ところでこのサルディスの陥落を、ミュティレーネーは最初、それほどの事件とは思っていなかったようです。しかし、やがて小アジア全体がペルシアに服属するようになると、自発的にペルシアに服属を誓うことになりました。この様子を見ていきます。サルディスの陥落後、つまりリュディア王国が・・・・


13:コエス

3代目のダーレイオス1世の治世の頃にはペルシア王国はバビロニアとエジプトを含む巨大な帝国に成長していました。ペルシア支配下のイオーニア、アイオリスの町々はペルシアの軍事行動に兵を提供しなければなりませんでした。さてBC513年のこと、ダーレイオスはスキュティア(現在のウクライナ南部)へ攻め込みました。・・・・


14:イオーニアの反乱

イオーニアの反乱は5年続きました。途中で反乱の首謀者だったミーレートスの僭主アリスタゴラスが逃亡する、という事件もありました。アリスタゴラスの従兄弟で舅でもあったミーレートス人ヒスティアイオスは反乱発生時にはペルシアの首都スーサにいたのですが、そこから口八丁手八丁で・・・・


15:ペルシア戦争

ペルシア王ダーレイオスは、イオーニアの反乱にギリシアのアテーナイとエレトリアが加担したことを口実に、ギリシア本土に攻め込むことを決意しました。のちに第一次ペルシア戦争と呼ばれるこの時のペルシア軍の侵攻にはミュティレーネーの海軍も従軍を命じられたと想像します。・・・・


16:デーロス同盟

ミュティレーネーの人々にとってミュカレーの戦いは印象的だったことだと思います。そしてギリシア連合海軍を率いるスパルタ王レオーテュキデースの名前も記憶に残ったのではないかと想像します。しかし、歴史の流れはこれ以降、スパルタではなく、アテーナイの隆盛・覇権へと向いま・・・・


17:ヘラニコス

ミュティレーネー生れの歴史家ヘラニコスは、ミュカレーの戦いの時10歳ぐらいでした。ですのでヘラニコスはミュカレーの戦いのことを同時代の出来事として経験したことでしょう。そしてその後のデーロス同盟結成とそれに自分の町が参加したことを知り、やがてアテーナイがエーゲ海・・・・


18:ミュティレーネーの反乱(1)

BC 479年のミュカレーの戦いはペルシアによるギリシア征服の企てを最終的にあきらめさせましたが、その48年後、アテーナイを中心とするデーロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟は戦争に突入しました。後世、ペロポネーソス戦争と呼ばれる戦争で、全ギリシア世界を巻き込み、27年も続いたのでした。・・・・


19:ミュティレーネーの反乱(2)

この動きに対し、最初アテーナイは何とか外交交渉によってデーロス同盟離脱を思いとどまらせようとしました。というのは、現在アテーナイはスパルタと戦争中であり、さらに悪いことには一昨年より疫病がアテーナイ市内を襲っていたため、軍事行動の余力がないと考えたからです。そこで使節を・・・・


20:ミュティレーネーの反乱(3)

反乱勃発の翌年BC 427年の夏、スパルタはアルキダス率いる40隻の艦隊をミュティレーネーへと送り、それと並行してアッティカに侵攻し、その地を荒らし回りました。しかしこのミュティレーネーへ向う艦隊は、途中の航路で難渋してしまい、時機を逸してしまいました。というのは、その間に・・・・


21:アリストテレースとテオプラストス(1)

BC 427年のミュティレーネーの降伏ののち、もうそのあとには、ミュティレーネーが中心となるような事柄は起らなかったようです。それでもミュティレーネーは背景としてはまだ歴史に登場します。さて話はミュティレーネーの降伏から82年後のBC 345年まで下ります。その年、2人の中年の科学者兼・・・・


22:アリストテレースとテオプラストス(2)

さて、アリストテレースとテオプラストスがミュティレーネーにやってきた経緯はといいますと・・・・まず、BC 347年に師のプラトーンが死去します。するとアリストテレースアカデメイアを飛び出し、アテーナイ市内からも飛び出して、小アジアにあるアッソスへ移住してしまいます。・・・・


23:最終回

アレクサンドロス大王が後継者を指名せずに若くして亡くなると、大王の部下たちが自分こそはアレクサンドロスの後継者と名乗って争い、大王の帝国は分裂し互いに侵攻を繰り返す、いわゆるヘレニズム時代になるのですが、その間にミュティレーネーがどの国の支配下にあったかを述べる・・・・