神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ヘルミオネー(5):アウリスのイーピゲネイア

イーピゲネイアの物語は常に女神アルテミスが関係しています。

(上:女神アルテミス)


イーピゲネイアは、トロイア戦争ギリシア側の総大将となったミュケーナイ王アガメムノーンの長女でした。母親はクリュタイメーストラーで、この人はトロイア戦争の原因となったヘレネーの姉に当る人です。ヘレネーが夫メネラーオスの留守中にトロイアの王子パリスとともに出奔して、トロイアへ行ってしまったことがトロイア戦争の原因でした。なお、メネラーオスはアガメムノーンの弟に当たります。ちょっと混乱しそうなので系図を示します。

この時、メネラーオスとヘレネーの間には幼いヘルミオネーがいたのですが、パリスへの恋に夢中になったヘレネーはその娘を置いて家を出ていってしまったのです。元はと言えばその恋も、愛の女神アプロディーテによって吹き込まれたもので、人間の身にはどうすることも出来ないものでしたが。なぜ、アプロディーテがそんなことをしたかというと・・・・、と、このあたりの話をしていくとどんどんイーピゲネイアから話が遠ざかるのでこの辺で止めます。トロイアからヘレネーを奪還するためにギリシアの君侯をまとめて軍を組織したのが、メネラーオスの兄であるアガメムノーンです。


さて、トロイアに攻め入るギリシアの艦隊がアウリスというところに勢ぞろいした時のことです。この時、逆風が何日も何日も続き、船隊を出航させることが出来ないでいました。アイスキュロス作の悲劇「アガメムノーン」では、その時のことを以下のように叙述しています。

疾風(はやて)はステュルモンから吹き寄せやまず、
船出を延ばし、餓(う)えをもたらし、あいにくと港に押しこめられた
人々をまよわせてから、船もそのうえ
船具まで さんざん痛めつけては、
くり返し 長いこと待たせておいて、
アルゴスのますらおどもが精粋を
涸らしていった。


ギリシア悲劇全集Ⅰ」の中の呉茂一訳「アガメムノーン」より


これは何か神の祟りではないかということで、従軍していた予言者カルカースが占うと、これは女神アルテミスの祟りである、との占いの結果になりました。全軍の大将アガメムノーンがアルテミスの神聖な鹿を狩りで射止めたことをアルテミスがお怒りになった、とカルカースは説明しました。さらに、アルテミスの怒りを解くためには、アガメムノーンの長女イーピゲネイアを女神への人身御供(ひとみごくう)に捧げなければならぬ、と言うのでした。


アガメムノーンは人の子の親として当然、それに従うのに躊躇します。

年長(としかさ)の殿(=アガメムノーン)は、口を開いてこう言いたもうた。
「(その命令に)従わぬとなら わたしの運命(さだめ)はきびしかろう、
だが、もしわが家の宝ともある、
あの娘(こ)を私が屠(ほふ)らねばならぬとあれば、
父親の手を、乙女を戮(ころ)したその血汐もて
祭壇の辺(へ)に穢すとなれば、これまたいかにも
きびしいこと。いずれが禍いなしといえよう。


ギリシア悲劇全集Ⅰ」の中の呉茂一訳「アガメムノーン」より


しかしアガメムノーンが招集した軍勢はすでにトロイアの富を略奪する期待に胸を膨らませており、とても遠征中止を言えるような状況ではありません。最後にはトロイア遠征を優先して、娘をいけにえに捧げる決心をします。こうして自分の館から娘のイーピゲネイアを、真実を伏せたまま、アウリスに呼び寄せます。口実は、従軍しているギリシア随一のつわもの、アキレウスとの結婚の式を行う、というものでした。


やがてやってきたイーピゲネイアを祭壇に載せ、予言者カルカースが刀を振り上げ娘を殺そうとした時に、女神アルテミスはイーピゲネイアを憐れんで一瞬のうちに牝鹿を身代わりにし、イーピゲネイアをさらって、遠い東の黒海沿岸にあるタウロイ人の国に連れていったのでした。そして、タウロイ人の国にあるアルテミスの神殿の神官にしたのでした。一方、アウリスに集結していたギリシア軍の兵士たちは、イーピゲネイアが消えたことは認めたものの、イーピゲネイアの行方については分からないままでした。とにかくこれにより逆風はおさまり、軍勢はトロイアへ進んでいくことが出来たのでした。

(上:アウリスのイーピゲネイア。いけにえにされようとしているところ。すでに身代わりの鹿のすがたも描かれている。)