神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

メーテュムナ(2):オルペウス

ところで「(1):起源」で引用したイーリアスの一節「上(かみ)はマカルの住居というレスボスから、陸(みち)の奥(く)はプリュギエー、涯(はてし)を知らぬヘレースポントスが仕切る限りの国々」は、前後の文脈からトロイアの勢力圏を表しているように私には思えます。するとこのイーリアスという作品の中でのレスボス島はギリシア人のものではなく、トロイア人のもの、そうでなかったとしてもトロイアの勢力下のある民族のものであるように見えます。そうしたわけで私は、マカルというのはギリシア人がレスボス島に到着する以前の時代の王の名前ではないか、さらにはメーテュムナ市の起源もギリシア人のレスボス島到着以前にあるのではないか、と想像しました。一方、「(1):起源」で一節を引用した「アポローンへの讃歌」で、マカルを「アイオロスの子」と形容しているのは、どう考えればよいでしょうか? というのは、アイオロスはギリシア人の中の一派であるアイオリス人の神話的祖先であるので、マカルがアイオロスの子であるならばマカルもアイオリス人、つまりギリシア人であることになるからです。私はこれを、のちのアイオリス人がマカルを自分たちの祖先に変えてしまったのだろうと解釈しています。伝説によれば、マカルの娘メーテュムナはレスボスという名の男との間にヒタケーオーンとヘリカーオーンの二人の男子を産みました。しかしトロイア戦争の際、アキレウスがレスボス島を攻め、この二人を殺してしまいました。また、ペイシディケーというメーテュムナの王女がアキレウスに恋し、アキレウスに対して「自分を妻にしてくれるならば、祖国を裏切りましょう」と告げた、という話もあります(このペイシディケーがメーテュムナの娘なのかどうかは、はっきりしません)。アキレウスはこれに同意を与えたということです。そしてペイシディケーの何らかの裏切りによって、アキレウスはメーテュムナを陥落させることが出来ました。しかし、アキレウスは彼女の裏切りを憎んで殺してしまったといいます。随分身勝手なアキレウスです。さて、アキレウスがレスボス島を攻めたことは、当時のレスボス島がギリシア人以外の民族に占有された島であったことを暗示しているように思えます。


このように考えていくと次にご紹介する話もギリシア人到着以前の話ということになってしまいますが、そこのところは神話・伝説の話なので厳密に考えなくてもよいのかもしれません。その話というのは、なぜレスボス島は多くの芸術家を輩出するのか、といういわれを説く話です。レスボス島は多くの芸術家の出身地でした。メーテュムナからは竪琴の奏者アリオーンが出ていますし、ミュティレーネーでは詩人のサッポーアルカイオス、アンティッサからは詩人にして竪琴奏者のテルパンドロスが出ています。メーテュムナ出身のアリオーンについては後で取り上げます。


昔々、オルペウスという竪琴の名人がいました。彼は文芸の女神ムーサイたちの一人カリオペーの息子でした。一説には彼はトラーキアの王であったといいます。オルペウスが竪琴を弾くと、森の動物たちも感動して彼の周りに集まったそうです。そればかりでなく心がないはずの木々や岩までも感動したそうです。彼はイアーソーンの率いるアルゴー号の冒険にも参加していますが、そのときには、歌の力で暴風を鎮めたり、怪女セイレーンたちが魅惑的な歌で人々を誘って船を難破させようとした時には、正しい楽の音によってセイレーンたちの歌の魅力を打ち砕いたりの活躍をしています。そのオルペウスが、亡くなった妻エウリュディケーを取り戻すために生きたまま冥府に入った話は有名です。冥府の王ハーデースは、「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件をつけて、彼の妻エウリュディケーを地上に連れ戻すのを許したのでした。しかしオルペウスは冥界からあと少しで抜け出すというところで、妻が本当に後ろに付いていてくれるのか不安に思って後ろを振り向いてしまったのでした。妻はそこにいました。しかし冥府の王との約束をやぶってしまったために、妻の姿はみるみる薄れて消えてしまいました。彼はとうとう妻を連れ戻すことが出来なかったのでした。


妻を失ったオルペウスはエウリュディケー以外の女性に見向きもしなくなったために、トラーキアの女性たちに恨まれ、ついには殺害されたと言います。あるいは彼は冥界から出てきたあとオルペウス教を創始し、冥界の秘密を信者に明かしたのですが、信者を男性に限ったために、女性たちに殺されたとも言います。オルペウスはトラーキアの女たちによって八つ裂きにされ、エブロス川に投げ込まれました。



やがてオルペウスの頭部と竪琴は、海を渡ってレスボス島のアンティッサまで流れ着きました。島の人々はオルペウスの死を深く悼み、墓を築いて彼を葬りました。それ以来、レスボス島はオルペウスの加護によって多くの芸術家を輩出することとなったということです。また、彼の竪琴はその死を悼んだアポローンによって天に挙げられ、琴座となったと言います。一方トラーキアでは、悪疫が流行しました。そこで人々が神意を伺うとオルペウスを殺害したことを神が咎めているということでした。そこで人々はオルペウスを厚く祭ったのでした。