神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

トロイゼーン(11):クレータ島への眼差し

では、ダミアーとアウクセーシアーがクレータ島から来たとされていることから、何か分からないでしょうか? これに関連して、ホメーロス風讃歌の中の「デーメーテールへの讃歌」で人間の老婆に化けたデーメーテールが、次のようないつわりの身の上話をすることが、気になります。

娘たちは近くに立ち、翼ある言葉をはなった。
「齢を重ねた人々の中の、どこのどなたなのですか、おばあさま。どうして街を遠ざけ、人家に近づこうとしないのですか。蔭なす奥部屋には、齢をちょうど同じくする女たちも、より若い娘たちもおり、言葉でも行ないでも、あなたに好意を示すでしょうに。」
こう言った。すると母神(=デーメーテール)は言葉を返した。
「女の族(うから)の中の誰かは知らぬが、娘たちよ、ごきげんよう。あなたがたにはお話ししましょう。お尋ねになったうえは、本当のことを話すのが良いでしょう。
 私の名はドーソー――それが母のつけてくれた名前です。それがこうしてクレタから、海の広い背を渡りやってきたのは、みずから望んだことではありません。嫌がる私を力ずくでむりやり、海賊たちがさらったからです。やがて彼らが脚速い船をトリコスに着けると、女たちも海賊たちとともどもみな陸に上がり、船のともづなの脇で食事の支度を始めました。
 しかし私は心弾む夕餉に惹かれることもなく、こっそり抜け出すと、黒い大地を渡り、いたけだかな主人たちが只で手に入れたこの私を売りとばして、金を手にすることなどできないよう、逃げてきたのです。


岩波文庫「四つのギリシア神話―「ホメーロス讃歌」より―」の「デーメーテールへの讃歌」逸見喜一郎訳 より

デーメーテールは偽りの身の上話の中で、自分はクレータ島から来たと言っています。こういう点に注目するとやはり、ダミアーとアウクセーシアーはデーメーテールと関係がありそうな気がしてきます。


また、アイギーナ島で崇拝されていたアパイアーという名前の女神のことも気になります。このアパイアーも、クレータ島から来たと言われています。アパイアーの元の名前はブリトマルティスといい、クレータ島からアイギーナ島にやってきてからその名前をアパイアーに変えたといいます。

(クレータ王)ミーノースが彼女を愛して、九カ月間そのあとを追ったが、ついに彼女は断崖より身を投げ、漁夫の網(ディクテュオン)にかかって、救われた。これは女神の称呼ディクテュンナの説明神話である。(中略)のち、彼女はアイギーナ島に遁れ、アルテミスの保護をうけ、同地でアパイアーなる名のもとで崇拝された。ときにアルテミスと同一視されている。


高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」の「ブリトマルティス」の項より


(上:アイギーナ島にある女神アパイアーを祭る神殿)


さて、ブリトマルティスという名前はクレータの言葉で「甘美な乙女」という意味だといいます。しかし、この名前はたとえば古代ギリシアで「復讐の女神たち」を「慈しみの女神たち」というふうにおだやかな、むしろ反語的な名前で呼ぶように、実は恐ろしい性格の女神を指していると言います。また、彼女の別名ディクテュンナは、クレータ島のディクテー山脈とも関係があるようです。ディクテー山脈は神々の王ゼウスが幼少期を過ごした場所と言われており、あるいはディクテュンナは幼いゼウスを養育したのかもしれません。ダミアーとアウクセーシアーとアパイアー(またはブリトマルティス、またはディクテュンナ)の共通点は、クレータ島から来た乙女、というところですが、ダミアーとアウクセーシアーもその起源を探っていくとクレータ島で崇拝された太古の女神たちだったのかもしれません。クレータ島にはかつて「ミノア文明」という、ギリシア人の文明より古い、ギリシア人とは別の民族が担っていた文明が存在したことが分かっています。そしてミノア文明の文字も見つかっており、それは線文字Aと呼ばれています。しかし、あいにくこの文字はまだ解読されていません。そのためミノア文明の宗教の内容は不明確なままです。たとえば、ミノア文明の考古学的遺物の中には蛇の女神と呼ばれている像がありますが、このような像からミノア文明の宗教の内容を想像するしかありません。



(右:蛇の女神)


さて、ここまで考察してきましたが、ダミアーとアウクセーシアーが石打ちによって殺されるという話の意味は不明なままです。私はこの話の中に、古代ギリシア人のミノア文明の宗教に対する拒絶の意志が表れているのではないか、と考えました。また、彼女たちが殺されただけでは、その後2人が女神として祭られる理由にはならないとも考えました。そのため私は、その後彼女たちは何らかの形で復活したのではないかと想像しています。そしてその復活は、一旦は拒絶したミノア文明の宗教思想がギリシア人の間で復活したことを表しているのかもしれない、と考えました。


ダミアーとアウクセーシアーの短い物語の背後には、さらに昔のミノア文明の女神たちが存在しているように思えます。