神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

ポテイダイア(6):開戦

アテーナイはポテイダイアに対して次の3つの要求を伝えました。
1. パレーネー側(南側)の城壁を取壊すこと。
2. アテーナイに人質を差出すこと
3. 毎年コリントスから派遣されてくる民政監督官を退去させ、今後は入国を拒否すること。
パレーネー側の城壁を取壊すように要求したのは、南側、つまりアテーナイが船でポテイダイアに向う時に到達し易い方面を無防備にするためで、これによってポテイダイアはアテーナイに対する防衛能力が損なわれることになりました。

(上:ポテイダイアの城壁の遺跡)


また、コリントスからはポテイダイアの政治に介入するための民政監督官なる役職の人物が派遣されていたのですが、それの受入れを拒否させて、ポテイダイアへのコリントスの影響を排除しようとしました。これらの要求に対してポテイダイアはアテーナイに使節を派遣して、要求の撤回を求めました。一方、アテーナイはすでにポテイダイアに向けて船隊を派遣して、上の要求を無理強いしようとしました。

アテーナイ人は、諸ポリスの離叛策に先手を打って取鎮めることを望み(ちょうどこの時、アテーナイ人はリュコメーデースの子アルケストラトスをはじめ十人の指揮官のもとに軍船三十艘、重装兵一千名を問題の地域に派遣する矢先であったので)船隊の指揮官たちにたいして、ポテイダイアから人質をとること、城壁をとりこわすこと、近隣諸都市の離叛を防ぐために警備を充分にすること、などを命令した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・57 から

ポテイダイアも、アテーナイに使節を派遣するだけでなく、コリントスにも使節を派遣していました。この使節コリントス政府の代表とともにペロポネーソス同盟の盟主であるスパルタに赴きました。スパルタの政府関係者は、もしアテーナイがポテイダイアに進撃すれば、自分たちはアテーナイ領土に侵攻する、と約束しました。やがてアテーナイに向った使節が、アテーナイからの望ましい回答を得ることなくポテイダイアに帰ってきました。さらにアテーナイから軍船がポテイダイアにすでに向っていることも判明しました。ここに至ってポテイダイアは近隣諸都市と同盟を結び、アテーナイに対して反乱を起したのでした。


アテーナイの軍船が近づきつつあったことを知ったコリントスは、まだアテーナイとの間に休戦条約が存在していたことを考慮して、正式の援軍ではなく志願兵を募集してポテイダイアに向わせました。志願兵はコリントス人からも他の都市からも募り、その結果総勢2000名の志願兵が集まりました。一方、アテーナイの軍船はポテイダイアに近づくとすでにポテイダイアとその周辺の地域がすでに蜂起していることに気づきました。

他方、アテーナイからの三十艘の船隊はトラーキアの沿岸に近づいたが、すでにポテイダイアをはじめ、附近一帯が叛乱を起していることがわかった。指揮官たちは、(中略)叛旗をひるがえした同盟諸地方を攻めることは不可能と考えて、遠征軍の本来の目的地であるマケドニアにむかった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・59 から

しかしアテーナイはこのままポテイダイをほうっておくつもりはありませんでした。

トラーキア地方の諸都市叛乱の報はただちにアテーナイ本国にも到着した。アテーナイ人は(中略)、カリアデースの子カリアースを筆頭とする計五人の指揮官とともに、アテーナイ人重装兵二千名と軍船四十艘を離反地域に急行させた。(中略)参加した兵数はアテーナイ人重装兵三千名、その他多数の同盟国諸兵、ピリッポスとパウサニアースの配下にあったマケドニア人騎兵隊六百騎であった。また沿岸には七十艘の軍船があって陸上部隊と並行して進んだ。小きざみの進軍をつづけて三日目にギゴーノスに着き、宿営をいとなんだ。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・61 から


こうしてアテーナイはポテイダイアを攻撃し、ポテイダイア側も城壁から出て来て応戦しました。ポテイダイア側にはコリントスから来た志願兵もいました。戦いはアテーナイ側の優位に進み、ポテイダイア勢は城壁内に押し戻されました。


ところで、この時ポテイダイア側の指揮を執っていたのはコリントス人のアリステウスという人物でした。彼は、コリントスから志願兵を率いてポテイダイアに救援に駆け付けた人物です。彼は人望の厚い人であり、コリントス出身の志願兵の大多数は、アリステウスにたいする友情が従軍の動機となっていました。また彼は、以前からポテイダイア市民と交流し、ポテイダイアを大切にしてきたので、この情勢でポテイダイアを助けようとするのは自然なことでした。志願兵を率いてポテイダイアに到着後、アリステウスはポテイダイアとその同盟軍の選挙によって全陸上部隊の総指揮官に選ばれました。それだけ軍事的な才能もあったのでしょう。

ポテイダイア(5):ペルシアの支配の終わり

まだポテイダイアがペルシア軍によって攻撃されている頃のことです。この時、ポテイダイアの市壁の中にはポテイダイア人だけでなくパレーネー半島のギリシア人都市からの援軍もいました。その中のスキオーネー人の部隊の指揮官がポテイダイアを裏切ろうとしたことがありました。

(ペルシアの将軍)アルタバゾスは(ギリシア人都市)オリュントスを占領した後、ポテイダイアの攻撃に鋭意専念したが、その彼に内通し町の引き渡しを策したのが、スキオネ人部隊を率いるティモクセイノスであった。その内通が当初どのような方法で行われたかは伝えられていないので、私も述べることができないが、結局は次のようなことになったのである。ティモクセイノスからアルタバゾスへ宛て、またアルタバゾスからティモクセイノスへ宛てて通信文を書き送ろうとするときには、これを矢の柄の刻み目に巻きつけ、それに矢羽根をつけてしめし合わせた場所へ射込むのである。しかしポテイダイアを敵手に渡そうとしたティモクセイノスの企みは発覚するにいたった。というのはアルタバゾスがしめし合わせた場所へ矢を射こんだところ、その場所を射損じ、矢はあるポテイダイア人の肩に当った。戦闘中にはよくあるとおり、矢の当ったものの周りに大勢兵士が駈けよってきたが、彼らはその矢を手にとって通信文のあるのに気付くと、指揮官の許へそれを届けた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、128 から

こうしてティモクセイノスの裏切りは発覚しました。しかし、事後の処置は穏便に行われました。

そこにはパレネ地方の同盟諸国のものたちも同席していた。指揮官たちはその通信文を読み裏切者の誰かを知ったが、スキオネ人が今後いつまでも裏切者の汚名を蒙ることのないようにと、スキオネの町への配慮からティモクセイノスの裏切りの罪を追求せぬことにした。


同上

同盟都市スキオーネーの名誉をおもんぱかったということです。しかしティモクセイノスが指揮官の地位から外されることはあったのだろうと思います。ポテイダイアはこの裏切りの実行を防止することが出来、前回述べたように津波によってペルシア軍は壊滅し、町の防衛を全うすることが出来たのでした。アルタバゾスは生き残った部隊を率いて、テッサリアのマルドニオス(~ペルシアの将軍)の許へ引き上げました。


翌年の春、マルドニオスはペルシア軍を率いて南下し、アテーナイを目指しました。アテーナイは二度目の占領を蒙りました。しかし、その後のプライタイアの戦いでマルドニオスは戦死し、ペルシア軍は敗退します。以前ポテイダイアを攻撃したアルタバゾスはといえば、プライタイアでの戦死は免れましたが、敗走してアジアに逃げ帰りました。こうして、ペルシアのギリシア侵攻は最終的に失敗したのでした。


こののち、アテーナイが対ペルシアの軍事同盟を組織します。後世の人々はこの同盟をデーロス同盟と名付けました。それは同盟の軍資金が当初デーロス島に保管されたためです。ポテイダイアはこのデーロス同盟に参加します。同盟に参加した都市は、同盟に対して軍船や兵力を提供するか、その代りとして毎年お金を支払う義務がありました。ポテイダイアは軍船や兵力を提供するのではなく、毎年同盟にお金を支払うことを選びました。この同盟は最初はペルシアに対して共同で対抗する機能を果していましたが、徐々にアテーナイが他国を支配するための組織へと変質していきます。当初デーロス島にあった同盟の共同金庫もアテーナイに移されるようになりました。また、同盟を脱退しようとした都市は、アテーナイを中心とする同盟軍によって攻撃され、アテーナイの隷属国に落されました。しかし、ポテイダイアはこの状況に抗議することはしませんでした。おそらくそうするには力が弱かったからでしょう。

故国から離れることを嫌った多くの同盟諸国の市民らは、遠征軍に参加するのを躊躇し、賦課された軍船を供給する代りにこれに見合う年賦金の(アテーナイによる)査定をうけて計上された費用を分担した。そのために、かれらが供給する資金を元にアテーナイ人はますます海軍を増強したが、同盟諸国側は、いざアテーナイから離叛しようとしても準備は不足し、戦闘訓練もおこなわれたことのない状態に陥っていた・・・。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・99 から

一方、ポテイダイアの母市であるコリントスは、スパルタを中心とするペロポネーソス同盟に参加していました。デーロス同盟とペロポネーソス同盟はやがて対立するようになりました。

ポテイダイア(4):津波

ヘレースポントス(ダルダネス海峡)でペルシア王クセルクセースが無事アジア側に渡ったことを見届けた上で、ギリシア側に引き返したのはアルタバゾスという名前の将軍が率いるペルシアの陸上部隊でした。話を少し前に戻します。サラミースの海戦の敗北によってペルシア王クセルクセースが撤退を決意した時、ペルシアの将軍マルドニオスは再度の攻撃を意図してクセルクセースに軍勢を乞いました。彼はクセルクセース王にこう言ったのです。

もし殿におかれてこの地にお留まりにはならぬ御決心ならば、軍の主力を率いて国許へお引き上げ願います。しかし私としましては、軍勢の中から三十万の兵をよりぬき、どうしてもギリシアを隷属せしめて殿にお渡しいたさねばなりません。


ヘロドトス著「歴史」巻8、100 から

このマルドニオスの願いは聞き届けられました。ペルシア軍がギリシア北部のテッサリアまで撤退した際に、マルドニオスはペルシア軍の一部を移譲されました。この時、戦争に適さない冬が近づいていたのでマルドニオスとその軍勢はテッサリアに留まり、翌春に再び南下することにしました。上述のアルタバゾスはこのマルドニオスの軍勢に合流しようと考え、ヘレースポントスからテッサリアに引き返してきたのでした。


そしてその途中でアルタバゾスは、パレーネー半島のギリシア人諸都市がペルシアに反旗を翻しているのに出会ったのでした。そしてその中心にポテイダイアがありました。

パルナケスの一子アルタバゾスは(中略)マルドニオスが選抜した部隊の中から六万の兵を従え、王を船橋まで見送った。王がアジアに着き彼は道を引き返してパレネ附近まできたが、(中略)みすみす反乱中のポテイダイア人に遭遇しながら彼らを屈服させぬ法はないと考えた。ポテイダイア人はペルシア王がすでに通過し終り、ペルシアの水軍もサラミスから逃亡して姿を消した後は、公然とペルシアに叛いていたのである。そしてパレネ地方の他の住民も同様であった。そこでアルタバゾスはポテイダイアの攻囲にかかったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、126 から

ポテイダイアはパレーネー半島の一番狭い所に位置しているため、アルタバゾスの軍勢がパレーネー半島を南下するためにはポテイダイアを通過しなければなりません。しかし、ポテイダイアがしぶとく抵抗するので、アルタバゾスの軍勢は南下出来ませんでした。そしてそういう状況が3か月続きました。そんなある日、海がとてつもなく引き潮になることがありました。ペルシア軍はこれはチャンスだと思い、ポテイダイアの市壁を迂回して浅瀬を渡って半島を南下しようとしました。

アルタバゾスが攻囲を始めてから三カ月が経過したとき、激しい干潮が起りそれが長期にわたって続いた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、129 から

しかしこれは津波の前兆だったのでした。

ペルシア軍は浅瀬が出現したのを見ると、浅瀬を伝ってパレネ半島に入ろうとして進んだ。彼らが浅瀬の五分の二を過ぎパレネ半島内に達するにはなお五分の三を剰しているとき、土地のものたちの話ではよく起ることだというが、このときはかつて例のないほどの猛烈な高潮が襲ってきた。泳ぎの心得のないものは溺れ死に、心得のあるものはポテイダイア人が船で乗り出して殺してしまった。


同上

エーゲ海のどこかで地震があったのでしょうか? そこのところはよく分かりません。ただ、入り江になっているカルキディケー半島の地形は、波高が増幅されやすい地形でした。しかし、津波というものを理解していない当時のポテイダイアの人々は、この現象を海の神ポセイドーンの怒りによるものと考えました。ポテイダイアという町の守護神がおそらくポセイドーンだったので、人びとはなおさらそう考えたのでしょう。






(左:ポセイドーン神)

ポテイダイア人のいうところでは、この高潮やペルシア人の遭難の原因となったのは、高潮のために死んだペルシア人たちが、町の郊外にあるポセイドンの社や神像に不敬な行為を犯したためであるという。これが原因であったとする彼らの言い分はもっともなように私には思われる。


同上

ポテイダイア(3):ペルシアの支配のもとで

ポテイダイアがペルシアの支配下に入ったのは、イオーニアの反乱が鎮圧されたあとのBC 492年のことのようです。この年ペルシアは、イオーニアの反乱で影響力が落ちたトラーキア地方を再度征服しつつ西に進み、マケドニアを攻めて服属させました。

彼ら(ペルシア人たち)はできる限り多くのギリシア都市を征服する心組みであったから、反撃の態勢すら示さなかったタソスを海軍によって征服するとともに、陸上部隊によってマケドニア人を討ち、すでにペルシアの隷属下にある民族にこれを加えたのである。というのはマケドニアより手前のペルシア寄りに住む民族は、すでにことごとく隷従していたからである。
 遠征軍はタソスからさらに進んで大陸の沿岸沿いにアカントスに達し、アカントスを発してアトス半島を回航しようとした。


ヘロドトス著「歴史」巻6、44 から

アトス半島を回ろうとしたペルシアの海上部隊は、このあと嵐に会って遭難し、ポテイダイアのあるパレーネー半島まで来ることは出来ませんでした。

ところがアトス沖を航行中、ほどこす術もないほど猛烈な北風が激しく吹きつけ、艦船多数がアトス岬に打ち当てられた。伝えられるところでは、艦船約三百隻が破壊され、人員の喪失は二万人を超えたという。


同上

しかし、ペルシアの陸上部隊は、ポテイダイアより西に位置するマケドニア領内に入ったとヘーロドトスは記しています。この時にペルシアの軍隊の一部はパレーネー半島にも進んだことでしょう。そしてこの時、ポテイダイアはペルシアに服属したのだと思われます。



2年後のBC 490年、ペルシア王ダーレイオスは、部下に命じてギリシアのアテーナイとエレトリアの2都市を攻略させました。というのはこの2都市はBC 499年のイオーニアの反乱に加担したからです。前回アトス半島を巡って海軍が遭難して大きな被害が出たことを気にしたため、今回はもっと南のエーゲ海のまん中を島伝いに進んでアテーナイとエレトリアに向いました。しかし、この時のペルシアの進攻は、マラトンの戦いでアテーナイによって撃退されました。その後まもなくしてダーレイオスは死亡し、息子のクセルクセースがペルシア王に即位しました。BC 480年クセルクセースは、ギリシア本土を征服するために自ら海軍と陸軍を率いて進軍しました。その途中、このあたりをペルシア軍が通過した際には、ポテイダイアは兵力の供出を強要されました。

さてクセルクセスはドリスコスを発してギリシアに向ったが、征旅の途中で次々に出会う者を強制的に従軍せしめた。


ヘロドトス著「歴史」巻7、108 から

クセルクセスの海上部隊は、アンペロス岬からパレネ全地域中で最も海中に突出している部分であるカナストロン岬に向け最短距離をとって直行し、その後ポテイダイア、アピュティス、ネアポリス、アイゲ、テランボス、スキオネ、メンデ、サネの各市から船舶と兵員を徴用した。右の諸都市はいずれも、古くはプレグラ、現在はパレネと呼ばれている地方に所在する町である。


ヘロドトス著「歴史」巻7、123 から

こうしてペルシア軍は行く先々で兵力を徴用していったので、雪だるま式に兵力が増加していきました。その大軍がギリシア本土を南下していったため、多くのギリシア人が自分たちの運命を悲観しました。しかし、アテーナイ沖のサラミースの海戦でギリシア側は奇跡的に勝利します。ペルシア王クセルクセースは思わぬ敗北に驚き、慌ててペルシアに撤退しました。クセルクセス王とその取り巻きの部隊は再びポテイダイアの北を、今度は東に向かって通過していきました。ペルシアの部隊が通過し終わると、ポテイダイアを始めとするパレーネー半島のギリシア諸都市は、いっせいにペルシアに反旗を翻しました。しかし、これは早計でした。というのはヨーロッパとアジアの境と考えられていたヘレースポントス(=ダルダネス海峡)までペルシア王クセルクセースを見送ったあとギリシア側に引き返してきたペルシア軍部隊があったからです。

ポテイダイア(2):初期の歴史

ポテイダイアの創建の様子の想像を続けます。ポテイダイアへの植民団の団長には英雄ヘーラクレースの子孫とされる人物が任命されたと想像します。というのは、コリントスからの植民については、そのような例が多いからです。例えば上に述べたエピダムノスへの植民の際(再植民ではないほうです)には、ヘーラクレースの子孫とされるパリオスという人物が団長に任命されたということです。

エピダムノスに植民したのはケルキューラ人であるが、その植民地開祖には、古くからの慣習にしたがって、ケルキューラ市の母国コリントスから、コリントス市民でヘーラクレースを祖とするエラクレイデースの子パリオスが招かれてその任にあたった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・24 から

また、シシリー島(当時の呼び名では「シケリア島」)にあるコリントスの植民市シュラクーサイ市(現代名シラクサ)を建設したのもヘーラクレースの子孫とされる人物でした。

コリントスのヘーラクレイダイ一門のアルキアースが、シュラクーサイ市を建設した。


トゥーキュディデース著「戦史」巻6・3 から


では、ポテイダイアが創建されたあと、どのようなことがあったのか想像していきましょう。ポテイダイアはコリントスの交易ネットワークの一部として活動していたと思います。さて、ポテイダイアのあるカルキディケー地方は、トラーキア地方の一部と考えられていました。ということはこの地方の原住民はトラーキア人だったということになります。トラーキア人は交易相手としてはあまり魅力のある相手ではなかったようです。もっともトラーキア人奴隷というのはギリシア世界でよくある話だったので、奴隷がトラーキアとの重要な交易品だったのかもしれません。一方、トラーキア人の傭兵というのは残忍なことで有名だったようです。ペロポネーソス戦争の頃の話ですがトゥーキュディデースは以下のような記事を書いています。

ミュカレーソスの町中に乱入したトラーキア兵らは、住居や神殿を次々と破壊、人の姿を見れば老人であれ年若い者であれ、何の見境いもなく手あたり次第に惨殺し、子供や婦女たちまで刃にかけた。(中略)これというのは、トラーキア人種は、勇気に駆りたてたれると、残虐きわまる流血行為をなすからであり、その点では異民族の中でも最たるものに匹敵する。


トゥーキュディデース著「戦史」巻7・29 から


(右:トラーキア人の兵士)


さて、トラーキア人の居住地の北にはパイオニア人という種族が住んでいましたが、この種族についてはあまり情報がありません。ヘーロドトスによれば、彼らは自分たちをトロイア人と同族だと考えていたということです。


また、トラーキアの西にはマケドニアがありました。マケドニア人は南のギリシア人のようにポリス(都市国家)を作っておらず、大きな領土を持つ国家を形成していましたが、話す言葉は南のギリシア人とあまり変わらない言葉を話しており、こちらはトラーキア人とは異なって、交易の相手としては良かったようです。おそらくポテイダイアはコリントスの対マケドニア交易の拠点となっていたのではないかと思います。ポテイダイアが建設されたBC 600年頃、マケドニアはまだそれほど領土を広げてはいませんでした。しかしこの半世紀後には、ポテイダイアの近くまで領土を広げていきます。やがてポテイダイアを含むカルキディケー半島はマケドニア領になっていくのですが、それはずっとのちのBC 4世紀のことでした。このほかにポテイダイアの交易相手としては、エーゲ海に点在する多くのギリシア系都市がありました。


創建してから80年までのポテイダイアについて、以上のように想像しました。もっと具体的な像が結べるとよかったのですが、出来ませんでした。


BC 546年にリュディア王国の首都サルディスがペルシア軍によって陥落し、リュディア王国が滅び、代わってペルシアが小アジアエーゲ海沿岸まで領土を広げます。その後、ペルシアは南に向かってエジプト王国とバビロニア王国を滅ぼしてその旧領を併合します。BC 513年頃に北のスキュティアを併合しようとしますが、それには失敗します。その代り、西に進んでトラーキアを征服しました。ペルシアの脅威がポテイダイアに近づいてきました。

ペリントス(ギリシア系都市のひとつ)人は自由のために勇敢に戦ったが、メガバゾス指揮下のペルシア軍は、大軍勢にものをいわせて、これを制圧してしまった。ペリントス攻略の後、メガバゾスはトラキアを通って軍を進め、この地方の町および民族をことごとく(ペルシア)大王に帰属させた。トラキアを平定せよという指令を、(ペルシア王)ダレイオスから受けていたからである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、2 から

ポテイダイア(1):はじめに


エーゲ海の北西にあるフォークのような形をした地形はカルキディケー半島といいます。3本のフォークの刃のような半島は東から順に、アトス、トローネー、パレーネーという名前がついています。一番東のアトス半島にはギリシア正教の聖地であるアトス修道院アトス自治修道士共和国)があります。一番西のパレーネー半島の付け根あたり、一番くびれたところにポテイダイアという町がかつてありました。これら3つの半島を含めて全体をカルキディケー半島というのですが、カルキディケーという名前はエウボイアの町カルキスに由来しており、そこにカルキスによる植民市が多かったために付けられた名前です。カルキディケー半島のギリシア植民市のほとんどはイオーニア系の町でした。そのなかで唯一のドーリス系の町がポテイダイアでした。ポテイダイアはドーリス系の町コリントスの人々が植民して作った町でした。


この植民によるポテイダイアの建設はBC 600年頃と言われています。この時代になると「神話と歴史の間」ではなくて歴史が明確になりかける時代です。当時ポテイダイアを建設した人々の母市コリントスはペリアンドロスという僭主によって統治されていたことが分かっています。ペリアンドロスはコリントスの商業を発展させた人物でした。ではポテイダイア創建にまつわる話は、といいますと、残念なことに私はそのような話を見つけることが出来ませんでした。そこでポテイダイア創建の様子に想像力で迫ってみたいと思います。


まずポテイダイアという町の名前ですが、これは海の神ポセイドーンに由来するのではないかと思っています。ポセイドーンはドーリス方言ではポテイダンとかポテイダオーンとか呼ばれていたということなので(英語版Wikipediaの「ポセイドーン」の項参照)、ポテイダイアはその派生形のように思えます。さらにヘーロドトスはポテイダイアの郊外にポセイドーンの神殿があったことを記しています。このことから想像するに、この町の主神はポセイドーンだったのではないでしょうか?


では、この町のどんなところが海の神ポセイドーンにふさわしいのでしょうか? それはパレーネー半島のもっとも狭い所に建てられた町であり、町の東も西も海に面している、というところです。この場所に町を作ろうとしたコリントスの人々は、おそらくここが交易の要衝になると見てとったのでしょう。そもそもコリントスの町自体が、コリントス地峡と呼ばれる陸地のくびれたところに位置していました。そのため、陸路でペロポネーソス半島から内陸へ、あるいは内陸からペロポネーソス半島に向かう者はコリントスを通過することになりました。そのことがこの町を通商で栄えさせることになったのでした。

コリントス人は陸峡地帯にポリスを営み、きわめて古くから通商の中心を占めていた。というのは、古くはギリシア人はペロポネーソス半島へ往来するとき、海路よりも陸路をえらび、コリントス領を横ぎって互いに交流したので、この地の住民は、古来詩人らも「富み豊かなる地」とこれを呼んでいるように、物質的な力をたくわえることができたのであった。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・13 から

ポテイダイアはコリントスと同じように陸峡地帯であるので、ここもまた通商の拠点になると植民者たちは考えたのだと想像します。当時すでにパレーネー半島の先端のほうにはいくつかのギリシア人植民市が存在していたので、それらとの通商路となることを想定したのでした。もっとも船で移動することが大好きなのが当時のギリシア人ですから、船で移動すればポテイダイアを通過する必要はありませんが、この町はパレーネー半島の東側の海と西側の海の橋渡しになる点でも有用でした。パレーネー半島の最もくびれたところで陸路を利用すれば、船で半島をめぐるよりも早く物品を輸送することが出来るというわけです。そしてこれは通商基地を各地に設置したいコリントスの僭主ペリアンドロスの政策に沿ったものでもありました。

(上:空から見たポテイダイア)


植民市創建の事業はおそらくデルポイアポローン神の神託によって始まったのでしょう。ポテイダイアについてはそのような話は伝わっていませんが、多くの植民市建設の話にはデルポイの神託に従って植民市が建設されたと伝えられています。例えば、タソス島にタソスを建設したパロスの人テレシクレースはデルポイに赴いた際に「霧立ちこめる島に、姿明らかなる町を建てよ」という神託を受け取ったと伝えられていますし、リビアの地中海沿岸の都市キュレーネーをテーラの人バットスが建てたのもデルポイの神託が「主ポイボス・アポロンは羊飼うリビアの国へ、新しき町を築くべく汝を遣わされるぞ。」と告げたからでした。コリントスの例を探すと、植民ではなく再植民というべき事例になりますが、コリントスの植民市であったケルキューラの人々がさらに植民して出来たエピダムノスが内乱に苦しんだ時に、コリントスに助けを求め、コリントスから再度植民団を送り出す話があります。この時、エピダムノスの人々はやはりデルポイに神意を伺ったのでした。

エピダムノス人は(中略)デルポイに使を立てて、植民地開祖の国であるコリントス政府にポリス(=都市国家)の処置を委託し、何がしかの援助をコリントスに仰ぐべきか否か、と神にたずねた。神(アポローン)は、かれらにこたえて、ポリスを委託し、コリントス人の指揮を仰ぐべし、と命じた。


トゥーキュディデース著「戦史」巻1・25 から

ポテイダイア:目次

1:はじめに

エーゲ海の北西にあるフォークのような形をした地形はカルキディケー半島といいます。3本のフォークの刃のような半島は東から順に、アトス、トローネー、パレーネーという名前がついています。一番東のアトス半島にはギリシア正教の聖地であるアトス修道院アトス自治修道士共和国)があります。一番西のパレーネー半島の付け根あたり、一番くびれたところにポテイダイアという町がかつてありました。これら3つの半島を含めて全体をカルキディケー半島というのですが、カルキディケーという名前は・・・・


2:初期の歴史

ポテイダイアの創建の様子の想像を続けます。ポテイダイアへの植民団の団長には英雄ヘーラクレースの子孫とされる人物が任命されたと想像します。というのは、コリントスからの植民については、そのような例が多いからです。例えば上に述べたエピダムノスへの植民の際(再植民ではないほうです)には、ヘーラクレースの子孫とされるパリオスという人物が団長に任命されたということです。エピダムノスに植民したのはケルキューラ人であるが、その植民地開祖には、古くからの慣習にしたがって、ケルキューラ市の・・・・


3:ペルシアの支配のもとで

ポテイダイアがペルシアの支配下に入ったのは、イオーニアの反乱が鎮圧されたあとのBC 492年のことのようです。この年ペルシアは、イオーニアの反乱で影響力が落ちたトラーキア地方を再度征服しつつ西に進み、マケドニアを攻めて服属させました。彼ら(ペルシア人たち)はできる限り多くのギリシア都市を征服する心組みであったから、反撃の態勢すら示さなかったタソスを海軍によって征服するとともに、陸上部隊によってマケドニア人を討ち、すでにペルシアの隷属下にある民族にこれを加えたのである。・・・・


4:津波

ヘレースポントス(ダルダネス海峡)でペルシア王クセルクセースが無事アジア側に渡ったことを見届けた上で、ギリシア側に引き返したのはアルタバゾスという名前の将軍が率いるペルシアの陸上部隊でした。話を少し前に戻します。サラミースの海戦の敗北によってペルシア王クセルクセースが撤退を決意した時、ペルシアの将軍マルドニオスは再度の攻撃を意図してクセルクセースに軍勢を乞いました。彼はクセルクセース王にこう言ったのです。もし殿におかれてこの地にお留まりにはならぬ御決心ならば、・・・・


5:ペルシアの支配の終わり

まだポテイダイアがペルシア軍によって攻撃されている頃のことです。この時、ポテイダイアの市壁の中にはポテイダイア人だけでなくパレーネー半島のギリシア人都市からの援軍もいました。その中のスキオーネー人の部隊の指揮官がポテイダイアを裏切ろうとしたことがありました。(ペルシアの将軍)アルタバゾスは(ギリシア人都市)オリュントスを占領した後、ポテイダイアの攻撃に鋭意専念したが、その彼に内通し町の引き渡しを策したのが、スキオネ人部隊を率いるティモクセイノスであった。その内通が・・・・
6:開戦

アテーナイはポテイダイアに対して次の3つの要求を伝えました。1. パレーネー側(南側)の城壁を取壊すこと。2. アテーナイに人質を差出すこと。3. 毎年コリントスから派遣されてくる民政監督官を退去させ、今後は入国を拒否すること。パレーネー側の城壁を取壊すように要求したのは、南側、つまりアテーナイが船でポテイダイアに向う時に到達し易い方面を無防備にするためで、これによってポテイダイアはアテーナイに対する防衛能力が損なわれることになりました。また、コリントスからは・・・・


7:アリステウス

前回お話ししたようにアリステウスはコリントス人で、コリントスからの志願兵を率いてポテイダイアに援軍にやってきたのでした。攻め寄せるアテーナイに対する最初の戦いにおいてアリステウスが計画した作戦は以下のようなものでした。アリステウスの作戦計画は、アテーナイ勢が進軍してくれば、自分は配下の将士らとともに陸橋地帯の警備を担当し、カルキディケー人をはじめ陸峡の北側の同盟諸兵は(中略)オリュントス城内にて待機する。アテーナイ勢がさらに陸峡地帯に戦列をすすめたとき、オリュントスの伏兵は・・・・


8:開城

ポテイダイアの包囲が始まったのはBC 432年の夏でした。それから2年経ったBC 430年の夏もまだ包囲は続いていました。この頃、アテーナイ本国では流行病がはやっていました。流行病はポテイダイア攻略に援軍に来た部隊にも拡がってきて、アテーナイ軍を苦しめました。同夏、ペリクレースの同僚指揮官であった、ニーキアースの子ハグノーンとクレイニアースの子クレオポンポスは、先の遠征でペリクレースの麾下にあった軍勢を与えられて、ただちにトラーキア地方のカルキディケー人、ならびに当時なお籠城兵の立てこもっていた・・・・