神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

カルキス(6):レーラントス戦争(1)


このように当時のギリシアのなかでも飛びぬけて繁栄していたらしいカルキスとエレトリアですが、BC 710年頃、この両者が互いに戦うことになります。戦争の原因はレーラントス平野の領有権でした。それまで両者が共同で使用していたレーラントス平野が急に争点になったのは、干ばつによる饑饉が原因だったと推定されています。この戦争が起きたのが古い時代のため、文献資料が少なくて全容が分かりません。では、その少ない文献資料にこの戦争のことがどのように書かれていたかを、ご紹介していきます。


まずトゥーキュディデースは、ペロポネーソス戦争を「今次大戦」「かつてなき大動乱」と呼び、それが本当に過去に例のない規模の戦争であったことを考察する文章の中で、カルキスとエレトリアの戦いについてほんの少し書いています。

(ペロポネーソス戦争以前に太古から)陸戦があったことは事実であるが、それらはいずれの場合にも、関係国は隣接国同志に限られており、自国の領土から遠くはなれた敵国を屈服させるための遠征は、ギリシア人のなすところではなかった。(ペロポネーソス戦争のように)強国を盟主に戴いて属国群が連盟をを結成したり、あるいは対等な国々が協力して同盟軍をつのった例はたえてなく、陸戦といえは隣国間の争にとどまったためである。あえて例外を求めれば、古い昔にカルキス対エレトリアの戦が行われたが、この戦では他のギリシア諸邦もいずれかの側と同盟をむすび、敵味方の陣営にわかれた。


トゥーキュディデース著「戦史」 巻1、15 から

レーラントス戦争について書かれているのはこれだけです。一方、ヘーロドトスは、ミーレートスがペルシアに対して反乱を起こした時にエレトリアが援軍を派遣した理由を説明する文章の中で、次のように書いています。

エレトリアがこの遠征に参加したのは、アテナイのためではなくミレトスへの恩義のためであった。というのは、エレトリアがカルキスと戦った時、ミレトスがエレトリアの側に立って援助したので――なおこのときエレトリアミレトスを敵として戦ったカルキスを助けたのはサモスであった――エレトリアとしてはその時ミレトスから受けた恩義に報いるという意味があったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、99 から

ここからレーラントス戦争当時、サモスがカルキスに味方してしていたことと、ミーレートスエレトリアに味方していたことが分かります。


ヘーロドトス(BC 440年頃に活躍)やトゥーキュディデース(BC 420年頃活躍)よりもずっと後代の人になりますが、プルータルコス(AD90年頃活躍)が次のようなことを書いています(アメリカのWikipediaの「レーラントス戦争」の項より)。

かつて最も著名な詩人たちがカルキスのアンピダマースの墓の前で出会ったと伝えられている。このアンピダマースは指導的な市民であり、エレトリア人とたえまなく戦争をし、レーラントス平野の領有のために戦った戦いのひとつで、ついに命を落とした。


プルータルコス「倫理論集」の中の「七賢人の饗宴(Septum sapientium conbivium)」より

この「最も著名な詩人たち」というのはホメーロスとヘーシオドスのことを指しています。これはヘーシオドスの「仕事と日」の中の以下の記述を踏まえています。

わしはこれまで、広漠たる海を船で渡ったことは一度しかない、
その一度とはアウリスからエウボイアへ渡った時――そのかみアカイア勢が、
聖なるヘラスから、美女の国トロイエーに向かうべく大軍を集め、
嵐の熄(や)むのを待っていたそのアウリスのことだが、
ここからわしは、英邁の王アンピダマースの葬いの競技に加わるべく、
カルキスに渡った。豪毅の王の息子らは、
莫大な賞品を予告し賭けてくれたが、あえていう、
その折の競技で、わしは歌競べに勝ち、把手(とって)ある三脚釜を見事手に入れたのじゃ。

その釜はヘリコーン山のムーサたちに奉納した、


ヘーシオドス「仕事と日」 松平千秋訳 より

アンピダマースという人物のことをプルータルコスは「指導的な市民」と言い、ヘーシオドスは「王」と呼んでいる点が相違していますが、当時のカルキスの王か、それに類する立場の人物の名前がアンピダマースであることが分かります。ただ残念なことにヘーシオドスはこの人物がレーラントス戦争を戦ったということを述べていません。それを述べているのはレーラントス戦争の700年以上のちのプルータルコスです。ヘーシオドスの生きていた時代ははっきりしないのですが、レーラントス戦争と同時期であると推定されているので、このアンピダマースがレーラントス戦争で主要な役割を担っていたのは確かでしょう。あと、ホメーロスについてですが、ヘーシオドスは、アンピダマースの葬礼の競技でホメーロスに出会ったとは書いていません。ホメーロスと出会ったという記述は疑わしいものです。


プルータルコスはレーラントス戦争について別の箇所でも述べています。

クレオマコスはテッサリア軍と共にカルキス人を支援するために向かった。その時、カルキス人のほうが歩兵では強いことが明らかであったが、カルキス人には敵の騎兵隊の力に耐えることは難しいことが見て取れた。(中略)クレオマコスはテッサリア騎兵の精華の者たちに囲まれつつ、敵の最も厚いところに突撃し、それらを敗走させた。それを重装歩兵隊が見て、彼らもまた向っていったために、カルキス人は高貴な勝利を得た。しかし、クレオマコスはそこで戦死した。


プルータルコス「倫理論集」の中の「恋愛についての対話(Amatorius)」より

ここからテッサリアがカルキスに味方したことや、その将がクレオマコスという名で、彼の率いる騎兵の力でカルキスが勝利を得たことが分かります。これが戦争の最終局面での出来事だったのか、そしてこれによってカルキスが最終的に勝利を収めたのか、よく分かりません。ただ、カルキスの人々は、カルキスのアゴラ(市民の集会の場であり、市場でもあったところ)にクレオマコスの記念碑を建てて、長く保存していた、ということなので、おそらくはクレオマコスの助力によってカルキスは最終的に勝利を収めたのでしょう。
なお、テッサリアというのは地域の名前であって、そこにはいくつも都市国家がありました。クレオマコスはテッサリアのパルサロスという都市国家の貴族だったそうです。

カルキス(5):植民活動

カルキスの南と東には、レーラントス平野という平野が広がっています。日本のウィキペディアの記述では「レラントス平野は農業に適しており、ギリシアでは肥沃な土地は希少なものであった。」とか「豊かなレラントス平野」(ともに「レラントス戦争」の項から)と書かれていたので、それを読んだ時は肥沃な平野をイメージしていたのですが、グーグル・ストリート・ビューで見ると、ずっと乾燥した風景でした。おそらくブドウ栽培に適しているのでしょう。


このレーラントス平野の真ん中を流れているのがレラス川で、このレラス川の河口近くに古代の遺跡があります。この遺跡であった町が活動していた古代に、この町が何と呼ばれていたのか、現代では分からないままです。それで考古学者の間では、この遺跡を、近くにある現代の村の名前を取ってレフカンディという名前で呼んでいます。レフカンディはあくまで仮の名前で、本当の名前は分かりません。考古学的な証拠から、このレフカンディがBC 825年頃という大変古い時代に大きな破壊を受けた、と推測されています。そして、その頃、その東のエレトリアの地に町が出現しています。このことから、レフカンディが何者かによって破壊され、その住民の多くは東に移動してエレトリアを建設した、と考えられています。レフカンディを破壊したのはカルキスでしょうか? そうすると、のちのレーラントス戦争(カルキスとエレトリアの間の戦争)につながる出来事と位置付けられるので、その可能性も考えられます。しかし、このあとカルキスとエレトリアは共同して各地に植民市を建設しているので、カルキスとエレトリアの関係が良好なことがうかがわれます。もしカルキスがエレトリアの前身であるレフカンディを破壊したのだとすると、このような良好な関係は考えにくいです。このような理由から私は、レフカンディを破壊したのはカルキスではない、と考えています。


レフカンディの破壊から約70年後、カルキスとエレトリアは共同で植民市ピテクーサイを建設します。ピテクーサイは今のイスキア島で、イタリアのナポリの沖にある島です。その後、ここを拠点としてカルキスはイタリア半島側にキューメーを建設します。ここはのちにクーマエと呼ばれた地で、ナポリの近くです。

(上:イスキア島)


さらにカルキスはナクソスと共同で、シシリー島に(当時の呼び名で言えばシケリア島に)ギリシアの植民市としては最初になるナクソスを建設します。それはBC 734年前後のことと推定されています。

ギリシア人の中で最初にやって来たのは、エウボイア島のカルキス人であった。かれらはトゥークレースを植民地創設者にいただいて渡来すると、ナクソス市を建設し、現在のナクソス市の外側にある、開国神アポローンの祭壇をこの時に建立した。ちなみに今日でもギリシア本土の祭祀に詣でる使がシケリアを出航するときには、先ず最初にこの祭壇で犠牲をささげることになっている。


トゥーキュディデース著「戦史」巻8・3 から


(シシリー島の)ナクソスは、さらに植民市を建設していきます。

他方、トゥークレースをいただくカルキス人らは、シュラクーサイが建設されてから五年目に(BC 729年頃)、ナクソスを基地としてシケロス人と戦い、これを駆逐してレオンティーノイ市を建設、つづいてカタネーを建設した。


同上

シケロス人というのは、シシリー島に当時いた先住民です。


 また、ピテクーサイ建設と同じ頃、カルキスとエレトリアは共同で、今のトルコの地に植民市を建設しています。この植民市も古すぎて当時の名前が分かっていません。考古学者は現代の地名を用いてこの町の遺跡をアル・ミナと呼んでいます。トルコのシリア国境に近い場所です。このようにイタリアからシリアまで東西に広く、カルキスとエレトリアの通商ネットワークが確立されたのでした。アル・ミナは当時の先進地域であり、一方イタリアやシシリー島は後進地域だったと思います。このようにさまざまな文化程度の民族間の通商でカルキスとエレトリアは利益を得、繁栄を享受していたようです。


このようにカルキスは文献資料があまりない時代に活発な植民活動を行っていたのでした。

カルキス(4):トロイア戦争ののち

では、アウリスでの悲惨な出来事から別れて、その後を見てみましょう。その後、ギリシアの艦隊はトロイアに向い、カルキスの王エレペーノールも40隻の船を率いて参加したのでした。「(2):エレペーノールとアバンテス族」でお話ししたように、エレペーノールはトロイアで戦死します。これはホメーロスが語っているところなので尊重しなければなりません。エレペーノールの子供については伝えがありません。また、エレペーノールの部下たちについては、トロイア戦争後、帰国する際に航路を外れてしまい、ギリシア本土の西側のエーペイロス地方(現在のアルバニア付近)で難破したため、やむなく上陸してそこにアポローニア市を建てた、という伝えがあります。トロイア戦争後のカルキスについて述べた伝説がみつからないので、トゥーキュデュデースの以下の記述で満足するしかなさそうです。

トロイア戦争後にいたっても、まだギリシアでは国を離れるもの、国を建てるものがつづいたために、平和のうちに国力を充実させることができなかった。その訳は、トロイアからのギリシア勢の帰還がおくれたことによって、広範囲な社会的変動が生じ、ほとんどすべてのポリスでは内乱が起り、またその内乱によって国を追われた者たちがあらたに国を建てる、という事態がくりかえされたためである。


トゥーキュディデース「戦史 巻1 12」より


エウボイア島の西海岸に面した大陸側はボイオーティア地方というのですが、トロイア戦争終結して60年後そこに北からボイオーティア人が侵入してきて、元から住んでいたゲピュライオイ人を追い出す、という事件が起きています。

現在のボイオーティア人の祖先たちは、もとはアルネーに住居していたが、トロイア陥落後60年目に、テッサリア人に圧迫されて故地をあとに、今のボイオーティア、古くはカドメイアと言われた地方に住みついた。


同上


(ボイオーティア人の侵入)


上のトゥーキュディデースによる記事では、ボイオーティア人に追い出された種族がゲピュライオイ人であるとは記していませんが、ヘーロドトスによる以下の記事と併せて考えると、それがゲピュライオイ人という種族であることが分かります。

ゲピュライオイ族というのは、本来エレトリア(カルキスのすぐ南の町)に発した部族であると自称しているが、私が調査して明らかにしたところでは、今日ボイオティアと称されている地方に、カドモスとともに移住してきたフェニキア人であり、この地方のタナグラ地区に割当てられて定住していたものであった。ところがまずカドモス一党が、アルゴス人によってこの地から追われたのち、つづいてゲピュライオイ族もボイオティア人に追われて、アテナイへ難を避けることになった。


ヘロドトス著「歴史」巻5、57 から


このゲピュライオイ人は、カルキスに近いエウボイア島のエレトリアに起源を持つ部族と自称していたことから考えて、その一部がエウボイア島に移住してきたのかもしれません。


トゥーキュデュデースによれば、ボイオティア人の南下の20年後、今度はドーリス人が南下してペロポネーソス半島を占領します。

また八十年後には、ドーリス人がヘーラクレースの後裔たちとともに、ペロポネーソス半島を占領した。


トゥーキュディデース「戦史 巻1 12」より

しかし、このことがカルキスに影響をおよぼした様子はなさそうです。

こうして長年ののち、ようやくギリシアは永続性のある平和をとりもどした。そしてもはや住民の駆逐がおこなわれなくなってから、植民活動を開始した。


同上

この時、植民活動の先頭にたったのがカルキスと、そしてその近くにある都市エレトリアでした。

カルキス(3):アウリス

(1)はじめに」でも述べましたが、詩人ヘーシオドスが、船に乗って海を渡ったのは一回しかない、それもアウリスからエウボイア島に渡った時の一回だけだ、と述べた時に、このアウリスについて、その昔、トロイアに出征するギリシア軍が集結した場所と説明しています。

わしはこれまで、広漠たる海を船で渡ったことは一度しかない、
その一度とはアウリスからエウボイアへ渡った時――そのかみアカイア勢が、
聖なるヘラスから、美女の国トロイエーに向かうべく大軍を集め、
嵐の熄(や)むのを待っていたそのアウリスのことだが、

ここからわしは、英邁の王アンピダマースの葬いの競技に加わるべく、
カルキスに渡った。


ヘーシオドス「仕事と日」 松平千秋訳 より

アウリスは、エウリポス海峡の近くで、カルキスの対岸(大陸側)にある小さな集落です。なぜここにギリシア軍が集結したのか、その理由は分かりません。それはともかく、このアウリスに集結したギリシア軍(アカイア勢)についてお話ししようと思います。


トロイアに攻め入るギリシアの艦隊がアウリスに勢ぞろいした時のことです。この時、逆風が何日も何日も続き、船隊を出航させることが出来ないでいました。上のヘーシオドスの「仕事と日」の中でも「美女の国トロイエーに向かうべく大軍を集め、嵐の熄(や)むのを待っていたそのアウリス」と唱っています。アイスキュロス作の悲劇「アガメムノーン」では、その時のことを以下のように叙述しています。

カルキスの向いの岸、アウリスの、潮が
寄せては返す浜辺に泊(かか)っていたとき
疾風(はやて)はステュルモンから吹き寄せやまず、
船出を延ばし、餓(う)えをもたらし、あいにくと港に押しこめられた
人々をまよわせてから、船もそのうえ
船具まで さんざん痛めつけては、
くり返し 長いこと待たせておいて、
アルゴスのますらおどもが精粋を
涸らしていった。


ギリシア悲劇全集Ⅰ」の中の呉茂一訳「アガメムノーン」より


この嵐は何か神の祟りではないかということで、従軍していた予言者カルカースが占うと、これは女神アルテミスの祟りである、と占いに出ました。全軍の大将アガメムノーンがアルテミスの神聖な鹿を狩りで射止めたことをアルテミスがお怒りになった、とカルカースは述べたのです。そして、アルテミスの怒りを解くためには、アガメムノーンの長女イーピゲネイアを女神への人身御供(ひとみごくう)に捧げなければならぬ、と言うのでした。

さてその折に
はげしい嵐をのがれる途と 別な手段(てだて)を、
――大将方(=総大将アガメムノーンとその弟メネラーオスのこと)にはいちだんと、きびしいながら――
アルテミス神をひきあいにして、陰陽師
宣告したもの、さればアトレウス家の
殿たち(=アガメムノーンとメネラーオス)は 大地を杖で打ち叩きつつ、
涙をとどめもあえなかったが


同上


アガメムノーンは娘の親として当然、その神託の命令に従いたくありません。しかしアガメムノーンが招集した軍勢はすでにトロイアの富を略奪する期待に胸を膨らませており、とても遠征中止を言えるような状況ではありませんでした。アガメムノーンはとうとうトロイア遠征を優先して、娘をいけにえに捧げる決心をします。

国王(=アガメムノーン)は、妻仇(めがたき)討ちの
戦さを援け、かつは船手をすすめるための
儀式の始めに、己(おの)が娘の
屠(ほふ)り手にさえ、なろうとされた。


同上

こうして自分の館から娘のイーピゲネイアを、真実を伏せたまま、英雄アキレウスとの婚姻の式を挙げるとの口実で、アウリスに呼び寄せます。


やがてやってきたイーピゲネイアを祭壇に載せ、予言者カルカースが刀を振り上げ娘を殺そうとした時に、女神アルテミスはイーピゲネイアを憐れんで一瞬のうちに牝鹿を身代わりにし、イーピゲネイアをさらって、遠い東の黒海沿岸にあるタウロイ人の国に連れていったのでした。一方、アウリスに集結していたギリシア軍の兵士たちは、イーピゲネイアが消えたことは認めたものの、イーピゲネイアの行方については分からないままでした。とにかくこれにより逆風はおさまり、軍勢はトロイアへ進んでいくことが出来たのでした。

(上:アウリスのイーピゲネイア。いけにえにされようとしているところ。すでに身代わりの鹿のすがたも描かれている。)


このギリシア悲劇「アガメムノーン」は、アガメムノーンの妻クリュタイメーストラーが、殺された娘の復讐を夫に果たすことを主題にしています。悲劇「アガメムノーン」でのクリュタイメーストラーのセリフのひとつを紹介して、この話を終わります。トロイアから凱旋してくる夫アガメムノーンを迎えて、ひそかに復讐の成就を神々の王ゼウスに祈願しているところです。

ゼウス神、願いを果たさすゼウス御神、何とぞ私の願いを遂げさせて下さいませ。その上は遂げようとお定めの何なりとも、神慮のままになされましょう。


同上

カルキス(2):エレペーノールとアバンテス族

カルキスという町の名前は、コンベーというニンフ(妖精)が青銅の武器をそこで発明したので、青銅を意味するカルコスという言葉からつけられた、ということです。また、カルキスなどエウボイア島の都市を建設した人々をアバンテス族と呼ぶのですが、彼らはアバースの子孫とされています。アバースは、カルキス近郊の泉のニンフ、アレトゥーサと、海の王ポセイドーン神の息子でした。アバースの息子がカルコードーンで、カルコードーンの息子が、エレペーノールです。エレペーノールはアバンテス族を率いてトロイア戦争に参加しました。ホメーロスイーリアスにはエレペーノールとアバンテス族が以下のように登場します。

さてエウボイアを領するは、その勢いも猛くはげしいアバンテスたち、
カルキスエレトリア、さては葡萄の房に饒(ゆた)かなヒスティアイア
また海に臨んだケーリントスや、ディオスの嶮しい城塞(とりで)を保ち、
またカリュストスを領する人々、あるいはステュラに住まうものら、
この者どもを率いるのは、エレペーノールとてアレースの伴侶(とも)、
カルコードーの子で意気の旺(さか)んなアバンテスらが首領(かしら)である、
彼と一緒に敏捷(すばしこ)いアバンテスらが従って来た、後ろ側だけ頭髪(かみ)を延ばした、
戈を執っては名だたるものども、とねりこの槍をさし伸べ
敵の甲(かぶと)を 胸のあたりに突き破ろうと 勢いはやり、
これともろとも、四十艘の黒塗りの船が随って来る


ホメーロスイーリアス」第2書 呉茂一訳 より

アバンテス族は古典時代にはイオーニア族の一部と見なされていたのですが、ヘーロドトスは、アバンテス族は元来イオーニア族とは無関係だったと述べます。

彼ら(=イオーニア人)の重要な構成要素を成しているエウボイアのアバンテス人は、名前からいってもイオニアとは何の関係もない種族であるし、またオルコメノスのミニュアイ人も彼らに混入しており、さらにカドメイオイ人、ドリュオペス人、ポキス人の一分派、モロッシア人、アルカディアのペラスゴイ人、エピダウロスのドーリス人、その他さらに多くの、種族が混り合っているのである。


ヘロドトス著 歴史 巻1、148 から


エレペーノールには、以下のような説話があります。
 1つは、ある時、祖父アバースに無礼をはたらいている召使いをこらしめようとして、エレペーノールがこの召使いを杖で打った、というものです。その時、その杖がはねて祖父アバースに当ってしまいました。そして打ちどころが悪くてアバースは死んでしまいました。意図したわけではなかったのですが、祖父を殺したということでエレペーノールはエウボイア島にいることが出来なくなり、亡命しました。この話では、亡命したエレペーノールがどうやってアバンテス族を率いてトロイア戦争に参加したのか気になるところです。
 もう1つの話は、アテーナイ王テーセウスが、メネステウスという者によって王位を奪われた際、テーセウス自身はスキューロス島に亡命し、テーセウスの息子たちはこのエレペーノールの許に亡命した、というものです。テーセウスはスキューロス島の王に謀殺されてしまいます。その後発生したトロイア戦争に、テーセウスの息子たちはエレペーノールの部下として参加したということです。



このエレペーノールがトロイア戦争でどんな活躍をしたかと言いますと、残念ながらあえなく戦死をとげています。エレペーノールを倒したのはトロイア方の将アゲーノールで、その父親アンテーノールはトロイアの老王プリアモスの相談役であるという高貴な身分の武将でした。エレペーノールは、トロイア方の将が倒れたのを見つけて、その着ている武具を戦利品として剥ぎ取ろうとしていたところを、アゲーノールに槍で刺されて殺されたのでした。

まず筆頭にはアンティロコスが トロイア勢の鎧武者一騎をうち取った、
先陣にあっては武勇のさむらい、タリューシオスの子エケポーロスをば。
すなわちはじめに馬の房毛をつけた 兜の星をうち当ててから、
額に槍を突き立てれば、青銅をはめたその穂が中へと
骨をつきとおして入った、さればその眼を闇がおおうと、
どっとばかりに、塔をさながら、はげしい戦さの中に倒れた。
落ち入ったその足をひっ掴(とら)えたのは エレペーノールの殿とて
カルコードーンの子で、意気の盛んなアバンテスらの大将だったが、

一刻もはやくその武具を 剥ぎ取ろうとばかり心逸(はや)って、
矢弾(やだま)の外へ引きずり出そうと焦ったが、その突進もつかの間に
終ったのは、屍(かばね)を引いてゆくところを 意気盛んなアゲーノールが
見て取るや、脇腹の、かがんだ拍子に楯の横から 露われ出たのを、
青銅をはめて磨いた槍でつき刺したれば、(その)手肢(てあし)は萎(な)えくずおれた。


ホメーロスイーリアス」第4書 呉茂一訳 より

カルキス(1):はじめに

カルキス(現代名:ハルキダ)はエウボイア島(現代名:エヴィア島)にある都市です。このエウボイア島というのは大きい島で、日本でいえば佐渡島よりも大きく、四国よりも小さいという感じです。この島のおもしろいところは、大陸にほぼくっつきそうに見えながら、わずかに(40mほど)離れているので島になっている、というところです。この海峡をエウリポス海峡といいます。カルキスはこのエウリポス海峡のすぐ北に位置します。


拡大してもくっついているように見えます。


さらに拡大してもこの通りです。


実際の写真で見ても川のように見えます。


しかし、これが川でない証拠は、流れが一定していないことです。つまり潮の満ち引きによって流れが逆流したりするのです。


ホメーロスと並んでギリシア文学の劈頭に位置付けられる詩人ヘーシオドスの作品の中に、「仕事と日」という勤労の尊さを説いた教訓詩があります。この詩を読むとヘーシオドスは航海を嫌っているのですが(そしてそれはギリシア人としては珍しいことなのですが)、この詩の中で自分が今までの人生の中で唯一船に乗ったのは、このエウリポス海峡を渡った時だと、誇らしげに語っています。なお、この詩は怠惰で自分の財産を狙う弟に向けて語る、という設定になっています。

もしお前が、その浮ついた心を商売に向け、
借財と楽しからぬ餓えを逃れたいと思うなら、
わしが鳴りとよむ海の掟を教えてやろう――
もっともわしは航海のことも船についても確かな知識はもたぬのだが。
わしはこれまで、広漠たる海を船で渡ったことは一度しかない、
その一度とはアウリスからエウボイアへ渡った時――そのかみアカイア勢が、
聖なるヘラスから、美女の国トロイエーに向かうべく大軍を集め、
嵐の熄(や)むのを待っていたそのアウリスのことだが、
ここからわしは、英邁の王アンピダマースの葬いの競技に加わるべく、
カルキスに渡った。


ヘーシオドス「仕事と日」 松平千秋訳 より

ヘーシオドスが人生で一回だけ船に乗ったのは、たった40mの距離でしかなかったのです。ここにヘーシオドスのユーモアを見るべきなのか、それとも彼は、ここまで船に乗ることを避けて来たことを本当に誇っているのか、判断がつきません。なお、彼の上の詩行から分かるように、カルキスの反対側の町アウリスでは、トロイア戦争に出征するギリシア軍の艦隊がかつて集結したことがあったのでした。

カルキス:目次

1:はじめに

カルキス(現代名:ハルキダ)はエウボイア島(現代名:エヴィア島)にある都市です。このエウボイア島というのは大きい島で、日本でいえば佐渡島よりも大きく、四国よりも小さいという感じです。この島のおもしろいところは、大陸にほぼくっつきそうに見えながら、わずかに(40mほど)離れているので島になっている、というところです。この海峡をエウポリス海峡といいます。カルキスはこのエウポリス海峡のすぐ北に位置します。拡大してもくっついているように見えます。・・・・さらに拡大してもこの通りです。・・・・


2:エレペーノールとアバンテス族

カルキスという町の名前は、コンベーというニンフ(妖精)が青銅の武器をそこで発明したので、青銅を意味するカルコスという言葉からつけられた、ということです。また、カルキスなどエウボイア島の都市を建設した人々をアバンテス族と呼ぶのですが、彼らはアバースの子孫とされています。アバースは、カルキス近郊の泉のニンフ、アレトゥーサと、海の王ポセイドーン神の息子でした。アバースの息子がカルコードーンで、カルコードーンの息子が、エレペーノールです。エレペーノールはアバンテス族を率いてトロイア戦争に参加しました。ホメーロスの・・・・


3:アウリス

「(1)はじめに」でも述べましたが、詩人ヘーシオドスが、船に乗って海を渡ったのは一回しかない、それもアウリスからエウボイア島に渡った時の一回だけだ、と述べた時に、このアウリスについて、その昔、トロイアに出征するギリシア軍が集結した場所と説明しています。わしはこれまで、広漠たる海を船で渡ったことは一度しかない、その一度とはアウリスからエウボイアへ渡った時――そのかみアカイア勢が、聖なるヘラスから、美女の国トロイエーに向かうべく大軍を集め、嵐の熄(や)むのを待っていたそのアウリスのことだが、ここからわしは、英邁の王アンピダマースの・・・・


4:トロイア戦争ののち

では、アウリスでの悲惨な出来事から別れて、その後を見てみましょう。その後、ギリシアの艦隊はトロイアに向い、カルキスの王エレペーノールも40隻の船を率いて参加したのでした。「(2):エレペーノールとアバンテス族]」でお話ししたように、エレペーノールはトロイアで戦死します。これはホメーロスが語っているところなので尊重しなければなりません。エレペーノールの子供については伝えがありません。また、エレペーノールの部下たちについては、トロイア戦争後、帰国する際に航路を外れてしまい、ギリシア本土の西側のエーペイロス地方(現在のアルバニア付近)で・・・・


5:植民活動

カルキスの南と東には、レーラントス平野という平野が広がっています。日本のウィキペディアの記述では「レラントス平野は農業に適しており、ギリシアでは肥沃な土地は希少なものであった。」とか「豊かなレラントス平野」(ともに「レラントス戦争」の項から)と書かれていたので、それを読んだ時は肥沃な平野をイメージしていたのですが、グーグル・ストリート・ビューで見ると、ずっと乾燥した風景でした。おそらくブドウ栽培に適しているのでしょう。このレーラントス平野の真ん中を流れているのがレラス川で、このレラス川の河口近くに・・・・


6:レーラントス戦争(1)

このように当時のギリシアのなかでも飛びぬけて繁栄していたらしいカルキスとエレトリアですが、BC 710年頃、この両者が互いに戦うことになります。戦争の原因はレーラントス平野の領有権でした。それまで両者が共同で使用していたレーラントス平野が急に争点になったのは、干ばつによる饑饉が原因だったと推定されています。この戦争が起きたのが古い時代のため、文献資料が少なくて全容が分かりません。では、その少ない文献資料にこの戦争のことがどのように書かれていたかを、ご紹介していきます。まずトゥーキュディデースは、ペロポネーソス戦争を「今次大戦」「かつてなき大動乱」と呼び・・・・


7:レーラントス戦争(2)

レーラントス戦争の同時代人の証言としては、ヘーシオドスのほかに、彼よりあとに生れた詩人アルキロコスがいます。彼の次の詩の断片は、レーラントス戦争のことを唱っている可能性があるそうです。アレスが平野で戦闘を交えさせるとき、多数の弓や投石具が放たれることはあるまい。うめき声の多い戦闘は、剣でこそ行われるだろう。エウボイアの槍で名高い殿原は、そのような戦闘に熟練しているのだ。訳文は藤縄謙三氏(京都大学名誉教授 2000年没、西洋古典学者)の「アルキロコスについて: ギリシア植民時代の詩人」から取りました。これについて、ストラボーン(およそBC 63年~AD 23年)は・・・・


8:パネーデースの判定

レーラントス戦争で戦死したカルキスの王らしきアンピダマースの葬礼に伴う競技において、詩人のヘーシオドスが歌競べの競技に優勝したことを「6:レーラントス戦争(1)」で紹介しました。これについては後世の資料で信ぴょう性が欠けるのですが、AD 2世紀の資料に詳しい記事が載っています。この資料「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」は、岩波文庫のヘーシオドス「仕事と日」に収録されています。今回は、この話をご紹介します。(ヘーシオドスとムーサたち。ベルテル・トルバルセン作 1807年)「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」にはアンピダマースの葬礼競技について・・・・


9:アテーナイ人入植者

カルキスとエレトリアが交易活動でかつて主役を務めていた証拠のひとつとして、古典期のギリシアで使われていた重さ単位が「エウボイア・タラントン」と呼ばれていたことが挙げられます。重さの単位は価値の単位でもありました。それは、金額を示す時に金の重さで示したからです。実は古典期のギリシアで広く使われていた重さの単位体系はもうひとつあって、それは「アイギーナ・タラントン」と呼ばれていました。その名の通りアイギーナが使い出したもので、アイギーナはレーラントス戦争後、エーゲ海西側における交易拠点として成長してきたために、この単位が広まったのでした。・・・・


10:アルテミシオンの海戦

BC 480年、ペルシアは再びギリシア本土に進攻してきます。今回はダーダネルス海峡(当時の呼び方ではヘレースポントス海峡)を渡り、今のブルガリア経由で、北から攻めて来たのでした。ギリシア軍は陸上部隊テルモピュライの隘路で、海上部隊はエウボイア島の北端アルテミシオンでペルシア軍を迎えました。というのもペルシア軍も海陸2つの部隊が歩を揃えて向ってくるからなのでした。このアルテミシオンにカルキスは20隻の船を出しました。ヘーロドトスはわざわざ「カルキス人はアテナイの提供した船二十隻に乗り組み」と書いています。なぜ自前の船でなく・・・・


11:戻ってきたアテーナイ人入植者

カルキスはサラミースの海戦に20隻の軍船で参加します。この海戦ではギリシア側が快勝しました。ペルシア王クセルクセースはアテーナイを占領し、小高い山に玉座を据えて観戦していたのですが、自軍の敗北が明らかになると慌ててペルシア本国に逃げ帰ってしまいました。こうしてカルキスもペルシア軍から解放されたはずですが、サラミースで戦ったのち帰国したカルキスの兵士たちはどんなふうになった町を見たことでしょうか? ペルシア軍が来る前に住民が避難出来たかどうか気になります。避難するにしてもどこに避難出来たのかも気になります。山に潜んでいたのでしょうか?・・・・


12:アリストテレース

ペロポネーソス戦争の末期にカルキスを始めとするエウボイア島の諸都市はアテーナイの支配から離脱することに成功しました。BC 404年にはアテーナイがスパルタに降伏します。それからずっと時代を下ったBC 323年、古代ギリシアの大哲学者にして大科学者のアリストテレースは、アテーナイを離れてカルキスに移住しました。それは彼が61歳の時のことで、翌年彼はカルキスで生涯を終えます。それを記念して現代のカルキス(=ハルキダ)にはアリストテレース銅像があります。なぜ彼がカルキスで晩年を過ごしたかというと、ここには彼の母方の家があったからです。・・・・