このように当時のギリシアのなかでも飛びぬけて繁栄していたらしいカルキスとエレトリアですが、BC 710年頃、この両者が互いに戦うことになります。戦争の原因はレーラントス平野の領有権でした。それまで両者が共同で使用していたレーラントス平野が急に争点になったのは、干ばつによる饑饉が原因だったと推定されています。この戦争が起きたのが古い時代のため、文献資料が少なくて全容が分かりません。では、その少ない文献資料にこの戦争のことがどのように書かれていたかを、ご紹介していきます。
まずトゥーキュディデースは、ペロポネーソス戦争を「今次大戦」「かつてなき大動乱」と呼び、それが本当に過去に例のない規模の戦争であったことを考察する文章の中で、カルキスとエレトリアの戦いについてほんの少し書いています。
(ペロポネーソス戦争以前に太古から)陸戦があったことは事実であるが、それらはいずれの場合にも、関係国は隣接国同志に限られており、自国の領土から遠くはなれた敵国を屈服させるための遠征は、ギリシア人のなすところではなかった。(ペロポネーソス戦争のように)強国を盟主に戴いて属国群が連盟をを結成したり、あるいは対等な国々が協力して同盟軍をつのった例はたえてなく、陸戦といえは隣国間の争にとどまったためである。あえて例外を求めれば、古い昔にカルキス対エレトリアの戦が行われたが、この戦では他のギリシア諸邦もいずれかの側と同盟をむすび、敵味方の陣営にわかれた。
トゥーキュディデース著「戦史」 巻1、15 から
レーラントス戦争について書かれているのはこれだけです。一方、ヘーロドトスは、ミーレートスがペルシアに対して反乱を起こした時にエレトリアが援軍を派遣した理由を説明する文章の中で、次のように書いています。
エレトリアがこの遠征に参加したのは、アテナイのためではなくミレトスへの恩義のためであった。というのは、昔エレトリアがカルキスと戦った時、ミレトスがエレトリアの側に立って援助したので――なおこのときエレトリアとミレトスを敵として戦ったカルキスを助けたのはサモスであった――エレトリアとしてはその時ミレトスから受けた恩義に報いるという意味があったのである。
ヘロドトス著「歴史」巻5、99 から
ここからレーラントス戦争当時、サモスがカルキスに味方してしていたことと、ミーレートスがエレトリアに味方していたことが分かります。
ヘーロドトス(BC 440年頃に活躍)やトゥーキュディデース(BC 420年頃活躍)よりもずっと後代の人になりますが、プルータルコス(AD90年頃活躍)が次のようなことを書いています(アメリカのWikipediaの「レーラントス戦争」の項より)。
かつて最も著名な詩人たちがカルキスのアンピダマースの墓の前で出会ったと伝えられている。このアンピダマースは指導的な市民であり、エレトリア人とたえまなく戦争をし、レーラントス平野の領有のために戦った戦いのひとつで、ついに命を落とした。
プルータルコス「倫理論集」の中の「七賢人の饗宴(Septum sapientium conbivium)」より
この「最も著名な詩人たち」というのはホメーロスとヘーシオドスのことを指しています。これはヘーシオドスの「仕事と日」の中の以下の記述を踏まえています。
わしはこれまで、広漠たる海を船で渡ったことは一度しかない、
その一度とはアウリスからエウボイアへ渡った時――そのかみアカイア勢が、
聖なるヘラスから、美女の国トロイエーに向かうべく大軍を集め、
嵐の熄(や)むのを待っていたそのアウリスのことだが、
ここからわしは、英邁の王アンピダマースの葬いの競技に加わるべく、
カルキスに渡った。豪毅の王の息子らは、
莫大な賞品を予告し賭けてくれたが、あえていう、
その折の競技で、わしは歌競べに勝ち、把手(とって)ある三脚釜を見事手に入れたのじゃ。
その釜はヘリコーン山のムーサたちに奉納した、
ヘーシオドス「仕事と日」 松平千秋訳 より
アンピダマースという人物のことをプルータルコスは「指導的な市民」と言い、ヘーシオドスは「王」と呼んでいる点が相違していますが、当時のカルキスの王か、それに類する立場の人物の名前がアンピダマースであることが分かります。ただ残念なことにヘーシオドスはこの人物がレーラントス戦争を戦ったということを述べていません。それを述べているのはレーラントス戦争の700年以上のちのプルータルコスです。ヘーシオドスの生きていた時代ははっきりしないのですが、レーラントス戦争と同時期であると推定されているので、このアンピダマースがレーラントス戦争で主要な役割を担っていたのは確かでしょう。あと、ホメーロスについてですが、ヘーシオドスは、アンピダマースの葬礼の競技でホメーロスに出会ったとは書いていません。ホメーロスと出会ったという記述は疑わしいものです。
プルータルコスはレーラントス戦争について別の箇所でも述べています。
クレオマコスはテッサリア軍と共にカルキス人を支援するために向かった。その時、カルキス人のほうが歩兵では強いことが明らかであったが、カルキス人には敵の騎兵隊の力に耐えることは難しいことが見て取れた。(中略)クレオマコスはテッサリア騎兵の精華の者たちに囲まれつつ、敵の最も厚いところに突撃し、それらを敗走させた。それを重装歩兵隊が見て、彼らもまた向っていったために、カルキス人は高貴な勝利を得た。しかし、クレオマコスはそこで戦死した。
プルータルコス「倫理論集」の中の「恋愛についての対話(Amatorius)」より
ここからテッサリアがカルキスに味方したことや、その将がクレオマコスという名で、彼の率いる騎兵の力でカルキスが勝利を得たことが分かります。これが戦争の最終局面での出来事だったのか、そしてこれによってカルキスが最終的に勝利を収めたのか、よく分かりません。ただ、カルキスの人々は、カルキスのアゴラ(市民の集会の場であり、市場でもあったところ)にクレオマコスの記念碑を建てて、長く保存していた、ということなので、おそらくはクレオマコスの助力によってカルキスは最終的に勝利を収めたのでしょう。
なお、テッサリアというのは地域の名前であって、そこにはいくつも都市国家がありました。クレオマコスはテッサリアのパルサロスという都市国家の貴族だったそうです。