神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書いていきます。

スミュルナ(9):女神ローマの発明

スミュルナには、アレクサンドロス大王の指示によって建設された新スミュルナと、それまでの旧スミュルナの2つの町があったのでした。旧スミュルナについては代表的な人物として詩人のミムネルモスをご紹介しました。そこで新スミュルナについても何か代表になりそうな人物を探したのですが、私の探し方が悪いのか、適当な人物が見つかりませんでした。そこで、今回は新スミュルナが女神ローマなるものを新たに発明したという話をご紹介します。




(女神ローマ)


BC 197年、かろうじて独立を保っていたスミュルナは、今まで同盟関係にあったペルガモン王国との関係を断ち、当時は共和国だったローマに助けを求めました。なぜ助けを求めたかと言えば、東方の大国セレウコス朝シリアのアンティオコス3世がギリシア世界に支配力を強めようとしていたからです。スミュルナはペルガモンの力ではセレウコス朝シリアの進出を防ぐのに不足であると考え、この年にマケドニアに勝利したローマに期待を掛けたわけでした。


このあたりの歴史は各国の目まぐるしく勢力関係が変わるので私はよく理解できていません。それでも、何とかご紹介したいと思います。


第2次ポエニ戦争カルタゴに勝ったローマにギリシアのいくつかの都市国家の代表がやってきて、彼らの北に位置するマケドニア王国の侵略から自分たちを守って欲しい、と要請しました。そこでローマはBC 197年にキュノスケファライの戦いマケドニアと戦ってこれに勝ち、マケドニアの侵略を止めさせました。ところが、マケドニアの力を温存させたローマの戦後処理にギリシア都市国家群は不満を持ち、今度はシリアのアンティオコス3世を頼ります。そしてアンティオコス3世にギリシア本土に進駐するように要請したのでした。この頃のギリシアは勢力が弱くなり、周りの大国の力を借りて自分たちの意図を実現するしかなかったのでした。


これをマケドニアを叩くよい口実と見たアンティオコス3世は軍を小アジアまで進め、ギリシア本土進攻をうかがう態勢に入りました。スミュルナはそれに危機感を持ったのでローマに同盟を持ち掛けたのでした。この同盟のおかげでアンティオコス3世はスミュルナに手出しが出来なかったようです。そこでこの同盟を記念してBC 195年にスミュルナ政府は女神ローマなるものを発明して、それを礼拝するようになったのです。古代ギリシア人はオリュンポスの12神を始めとする多数の神々を崇拝する多神教だったので神が1名増えることは、どうってことはないのでした。しかし、スミュルナは当時ローマ支配下ではなかったのに、ローマという町を神として崇める、という発想を持ったのにはちょっと驚きます。この時まで当のローマ人にもそんな発想はなかったのです。


ところで、ローマは神話に関しては全面的にギリシアの神話を取り入れていました。そしてギリシア神話に登場する神々を自分たちの崇拝する神々に置き換えて理解したのです。たとえばゼウスはユーピテルに、ヘーラーはユーノーに、ポセイドーンはネプトゥーヌスに、といった具合にです。そんなローマ人ですから、ギリシア人が、女神ローマを崇拝し始めた、と聞けば、すぐにそれを取り入れてしまうのでした。もし、都市ローマを神格化するのではなくて、ローマの当時の将軍の誰かあるいは政治家の誰かを神格化していたら、当時共和制だったローマ政府は拒否反応を示したことでしょう。当時のローマの支配階級は集団指導制を良しとし、誰かに権力が集中することを非常に警戒しておりました。そんな時に外国のこととはいえ、ローマ人の誰か個人を神格化している、という情報が入ったら、それを止めようとしたと思うのです。しかしそうではなくてスミュルナはローマという町自体を神格化したので、ローマ人の拒絶にも合わずに済んだのでした。


その後、スミュルナはペルガモン王国の支配下に入りますが、BC 133年、ペルガモン王アッタロス3世が後継者なしで死亡する際に、自分の王国全体をローマに寄贈すると宣言しました。そのため、王国はローマの属州となり、アジア属州と名付けられました。スミュルナはローマの支配下に入り、属州の主要な港として栄えたのでした。


一方、女神ローマの方はといえば、ローマの支配領域にその崇拝が広まり、紀元2世紀頃には人々に普通に知られた女神になっていました。そしていつのまにか女神ローマのいわれが出来ていました。紀元1~2世紀の文筆家プルータルコスは、以下のように書いています。ここでは女神ローマは、ギリシア風にローメーと呼ばれています。

ある人はトロイアが落ちた時逃げのびたいく人かの者がうまく船を手に入れたが、風に運ばれてテュレーニアー(イタリア)に到着し、テュンブリ川(ティベル川)の岸に錨を下したところ、その中の女たちがすでに当惑してつくづく海がいやになっているのを見て、ローメーという名の、身分も高く知恵もすぐれていた一人が、船を焼いてしまおうと持ち掛けた。それを実行したために初めは男たちも怒ったが、結局しかたなくてパランティオン(ローマの丘のひとつ)のあたりに住居を定めるうちに、土地が豊かなこともわかったし、近くの住民たちも快く迎えてくれて、しばらくの間に予想以上の成功を収めたので、ローメーにいろいろ敬意を表したが、とりわけ町にその名をつけてこの人が元であることを明らかにしたのだと言っている、


プルターク英雄伝(一)」の「ロームルス」から 河野与一訳。かな遣いや漢字を現代風に書き換えました。


このように女神ローマへの礼拝が流行した成り行きを見ていくと、BC 197年当時のスミュルナ政府はなかなかのマーケティング上手ではなかったか、と思えてきます。


スミュルナがローマ帝国内の重要な港湾都市として栄えたところで、このスミュルナの話を終えたいと思います。読んで下さり、ありがとうございます。