神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

スミュルナ(7):ミムネルモス(1)

スミュルナには、アレクサンドロス大王の指示によって建設された新スミュルナと、それまでの旧スミュルナの2つの町がありました。今回は旧スミュルナの盛期を生きたスミュルナ人であるミムネルモスをご紹介します。ミムネルモスは詩人で、後世の人名辞典スーダによれば、第37オリンピアード(BC 632〜29年)に盛りを迎えていたということですので、その時40歳だったとすればBC 670年頃の生まれということになります。ここでご紹介する情報は英語版Wikipediaの「ミムネルモス」の項およびタフツ大学の「ペルセウス・デジタル・ライブラリ」の「エレゲイア詩とイアムボス詩、巻1」の「ミムネルモス」の項に依拠しています。




(ヘルモス川)


英語版Wikipediaによれば、「ミムネルモス」という名前は、リュディア王ギュゲースがスミュルナを攻略しようとした時の、ヘルモス川のほとりでの戦いにおけるスミュルナの勝利を記念して、両親がつけた可能性がある、ということです。これは「ミムネルモス」という名前を「ミム」と「ネルモス」に分解して、後者を「ヘルモス川」と関連付けたものと思われます(しかし前者の「ミム」が何を意味するのか、私はギリシア語が分からないので分かりません)。そして、リュディア王アリュアッテスによるスミュルナ陥落の際に死んだのだろう、と推測しています。ミムネルモスの生涯については例によってほとんど分かりません。そこで生涯については脇に置いておき、彼の詩の断片を紹介します。これは英語版Wikipediaに出ていたものです。

What is life, what is sweet, if it is missing golden Aphrodite?
Death would be better by far than to live with no time for


Amorous assignations and the gift of tenderness and bedrooms,
All of those things that give youth all of its covetted bloom,


Both for men and for women. But when there arrives the vexatiousness
Of old age, even good looks alter to unsightliness


And the heart wears away under the endlessness of its anxieties:
There is no joy anymore then in the light of the sun;


In children there is found hate and in women there is found no respect.
So difficult has old age been made for us all by God!




黄金なすアプロディーテーが欠けているとしたら、何が人生であり、何が甘美なものであろう?
恋のかけひきと、やさしさと寝室の贈り物、そして男であれ女であれ


若さに、誰もが欲しがるその花盛りの全てを与えるそれら全てのもの、
それらのための、ひとときのないまま生きるよりか、


死ぬ方がずっとましだろう。だが、老年のわずらわしさが
やって来ると、美貌でさえ見苦しいものに変わり


心は、はてしない不安の下ですり減る。
そして日の光の中に、もはや喜びはなく、


子供たちの中に嫌悪が見出され、女たちの中に敬意のなさが見出される。
神は老年を私たち皆にとって、かくもつらいものに作られたのだ!

このような、ほろ苦い詩を作っていたのですね。この詩が書かれた2600年前から今に至るまで、多くの人々が同じような嘆きをしてきたことでしょう。いったいミムネルモスは何歳の時にこの詩を書いたのでしょうか?


この詩人の書いた恋愛を主題にしたいろいろな詩は、300年後の学者かつ詩人のカリマコスや、600年後のローマの詩人プロペルティウスに影響を与えたということです。


しかし、ミムナルモスの詩の主題は恋と人生のはかなさだけではなかったそうです。彼はコロポーン人によるスミュルナの占領についても歌っています。この詩の断片はタフツ大学の「ペルセウス・デジタル・ライブラリ」の「エレゲイア詩とイアムボス詩、巻1」の「ミムネルモス」の項に載っていました(ただし、詩行に分けての表示はされていなかったです)。

... When from the lofty city of Neleian Pylos we came on shipboard to the pleasant land of Asia, and in overwhelming might destroying grievous pride sat down at lovely Colophon, thence went we forth from beside the wooded river and by Heaven's counsel took Aeolian Smyrna.


ネーレイダイのピュロスの気高い町から我らが船に乗ってアジアの心地よい土地に来た時、我らは圧倒的な力で美しいコロポーンに居座る(レレゲス人の)痛ましい誇りを破壊し、そこから我らは木々に覆われた川のほとりから進み、天の助言によってアイオリスのスミュルナを獲得した。

この詩は私に文学的な興味ではなく、「神話と歴史の間」を探求する者としての興味を惹き起こします。「ネーレイダイのピュロス」というのはペロポネーソス半島の西側にあるピュロスという町のことで、ギリシア神話ではネーレウスとその子ネストールという王の故郷として登場します。特にネストールは、ホメーロスの「イーリアス」や「オデュッセイアー」では長老の姿で登場し、自分の過去のいさおしを半ば自慢しながら他のギリシア君侯に助言を与える人物として描かれています。


「ネーレイダイのピュロス」の「ネーレイダイ」というのはネーレウスの子孫という意味です。ギリシアの伝承によればネーレウスの子孫たちは、北方から攻めてきたヘーラクレースの子孫たちによって故国を追い出された、ということになっています。その一部はアテーナイに行き、テーセウスの子孫に代わってアテーナイの王になりました。メラントス、コドロスというのがそれらの者たちです。またアテーナイに亡命して、アテーナイの貴族の家柄になった者もおり、それはアルクマイオーン家と呼ばれました。上の詩が表明しているのは、コロポーンを建設したのはやはりネーレイダイの一部であるということでしょう。次にスミュルナをアイオリス人から奪い取ったことについては「天の助言によってアイオリスのスミュルナを獲得した」と歌うだけで、ヘーロドトスが伝えるような忘恩の行いについては書いていません。忘恩というのは、亡命者として受け入れてもらいながら、その町を計略を用いて奪い取ったからです。ミムネルモスがこういうことを書いていないという点も私には興味深いです。


「ペルセウス・デジタル・ライブラリ」には、この断片に関してアテナイオスの「食卓の賢人たち」からの引用も載っていました。そこには、「我々がミムネルモスのナンノ(=ミムネルモスの詩集の名前)から学んだように、コロポーンピュロスアンドライモンによって創建された」と書かれています。このアンドライモンについてもう少し情報が残っていたらよかったのに、と私は思います。