神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

スミュルナ(6):荒廃と復興

スミュルナ占領に失敗したリュディア王ギュゲースは、その後、北からやってきた遊牧民キンメリア人と戦って死にました。キンメリア人はその後西へと進んでエーゲ海岸沿いを襲撃していくのですが、スミュルナがキンメリア人に襲われたのかどうか、英語版のWikipediaを調べても分かりませんでした。ヘーロドトスもそのことについては何も書いていません。キンメリア人が南のエペソスを襲撃したのは確かです。ひょっとすると、キンメリア人はスミュルナに来たことは来たが、堅固な城壁を攻めあぐねて退却したのかもしれません。このキンメリア人を最終的に小アジアから駆逐したのがリュディア王アリュアッテスでした。彼はギュゲースの3代後のリュディア王でした。キンメリア人が駆逐されたのはよかったのですが、その代わりリュディアがスミュルナを攻め、占領してしまいます。BC 600年前後のことでした。

このアリュアッテスは、(中略)キンメリア人をアジアから駆逐し、コロポンの植民都市であるスミュルナを占領し、クラゾメナイに侵攻した。ただしクラゾメナイでの作戦は思うにまかせず、散々な目に遭って撤退したのであった。


ヘロドトス著 歴史 巻1、16 から

この占領はスミュルナにとって壊滅的だったようで、その後、スミュルナは長い低迷の時代を経験します。ヘーロドトスの「歴史」には、上に引用した記事より後の時代のスミュルナに関する記事は登場しません。スミュルナはイオーニアの反乱にも参加しなかった(出来なかった)ようですし、ペロポネーソス戦争にも名前は出てこないようです。


このスミュルナの占領の原因について英語版のWikipedia

テオグニス(BC 500年頃)によれば、スミュルナを破壊したのはうぬぼれであった。


英語版Wikipediaの「スミュルナ」の項目より

と書いています。どういうことなのかネットを調べたところ、次のようなテオグニスの詩句に出会いました。(ただし英語で書かれていました。)

Pride and oppressive rule destroy'd the state
Of the Magnesians--Such was Smyrna's fate;
Smyrna the rich, and Colophon the great!
And ours, my friend, will follow, soon or late.


うぬぼれと圧政がマグネシアの町を
破壊した。同じことがスミュルナの運命だった。
豊かなスミュルナよ!、そして大いなるコロポーンよ!
そして我々の町も、友よ、遅かれ早かれそれに続くだろうよ。

これを読んでも、私はまだよく分かりませんが、当時スミュルナは油断していたということなのでしょうか? 上の詩句からはそのように感じられます。



スミュルナが復活するのはBC 4世紀まで下って、アレクサンドロス大王小アジアに攻め込んで、ペルシアの支配から小アジアギリシア諸都市を解放した時です。アレクサンドロスはスミュルナの再建を考え、その後継者であるアンティゴノスやリュシマコスがスミュルナを再建しました。厳密にいうと元々のスミュルナの町より少し離れたところに新しい、より大きな市街を建設したのでした。



アレクサンドロス大王


この町はその後、小アジア内陸とエーゲ海を結ぶ交通の要衝として、エペソスミーレートスと競い合う関係になります。そしてローマがギリシアを支配する頃になると、スミュルナはそれらの町を抜き、小アジアで1、2を争う大都市になりました。現在残っている遺跡の大部分はAD 2世紀のものだそうです。