神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

コース(2):ペイディッポス

 さて、ヘーラクレースの子としてコースで生まれたテッサロスについては、物語が伝わっていないようです。その二子、ペイディッポスとアンティポスについてはイリアスにあるように、トロイア戦争に出陣しています。ペイディッポスは、そもそもトロイア戦争の原因となった美女ヘレネーに求婚した者の一人でした。美女ヘレネーに求婚する王侯貴族の数は多かったので、ヘレネーの父でスパルタ王のテュンダレオースは、誰をヘレネーの夫として選んでもあとで争いが起きるのを恐れました。そのためその選択をヘレネーに任せ、その一方で求婚者たちには、ヘレネーが誰を夫として選ぼうともその者を助けるように誓わせたのでした。ヘレネーが選んだのはメネラーオスでしたが、その後トロイアの王子パリスがメネラーオスの許からヘレネーを連れ去った時に、メネラーオスはかつての求婚者たちに呼びかけてトロイア遠征の軍を組織したのでした。そのようなわけでかつての求婚者の一人ペイディッポスも、弟アンティポスを伴ってトロイア遠征の軍に加わったのでした。


 トロイアへの遠征軍は最初、間違えてトロイアのそばのテウトラーニアに着き、あろうことかそこをトロイアと思って攻撃してしまいました。そしてそこの王テーレポスを傷つけてしまったのでした。誤解に気づいたギリシア軍は引きあげていきましたが、8年後にまた軍を率いてやってきました。そしてテーレポスに、トロイアへ行く道案内をお願いしたのです。そのお願いの使者となったのがペイディッポスでした。かつて傷つけた相手にものを頼むのですから、なかなかいやな役目です。彼がテーレポスを説得する役目を負わされたのは、テーレポスがヘーラクレースの子であったからでした。ペイディッポスはヘーラクレースの孫なので、(面識はなかったでしょうが)テーレポスとは縁続きになるのでした。その後紆余曲折ありましたが、神託に従ってテーレポスが8年前に負った傷を治療することで、最終的にはテーレポスはギリシア軍にトロイアへの航路を教えたのでした。


 その後、名高いトロイア戦争が始まります。戦争は10年続き、最後に木馬の計によりトロイアは陥落します。この木馬の中にはギリシア側の勇士が何名も(一説には50名)潜んでいたのですが、その中にはペイディッポスもいました。そして夜が来て、トロイアの人々がいつわりの勝利に騙されてお祝いの宴に酔いつぶれた時に、オデュッセウス、ディオメーデース、メネラーオスなどの勇士と共にペイディッポスも木馬から出てきて、無防備になった夜のトロイアの町を攻略したのでした。たちまちトロイアの王侯貴族のなげきの声が、あちこちで上ります。

・・・・パントゥスは、なげきとともに答えいう
「ついに来ました。トロイアの最後の時と宿命の日が来て、
 ついにわれわれはトロイア人であり終えた。
 イーリオン・トロイアの栄光も、
 みんなあり終え、今はない。・・・・」


ウェルギリウスアエネーイス泉井久之助訳 第二巻 320行付近


 トロイア陥落後、ペイディッポスはなぜかコースに帰国せず(あるいは一旦帰国したのち)コース人を率いてアンドロス島に移住した、ということです。一方、彼の弟アンティッポスはテッサリアに移住し、そこを自分の父親の名テッサロスにちなんでテッサリアと名づけた、ということです。そうすると、その後のコースはどうなったのか気になります。


 ここからのちの時代への接続はうまくいっていません。考古学によるとトロイア戦争の頃コース島にいたのはカーリア人だということになっています。そうするとペイディッポスたちはカーリア人だったのでしょうか? しかし神話では彼らはギリシア方についていて、ギリシア人のように思えます。あるいは、「イーリアス」でコース島から首領たちがトロイアに出陣したという伝承は、トロイア戦争のずっとあと、ホメーロスの生きていた頃に(その頃にはドーリス人がコース島に住みついてから年月が経っていましたが)、コース島の首領たちの間で作られた伝承なのかもしれません。そして、ドーリス人の首長層は、自分たちをヘーラクレースの子孫であると信じていたので、ペイディッポスたちもヘーラクレースの子孫としたのかもしれません。