神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エペソス(14):ケルスス

 「神話と歴史の間のエーゲ海」と言いながら、話も紀元後になりましたので、そろそろエペソスの物語も終わりにしたいと思います。最後に、ケルススという人物について取り上げておこうと思います。エペソスの遺跡の中で目立つものの中に、ケルスス図書館というものがあります。

 これは、ケルススを記念して、その息子が建てたものだそうです。今、残っているのはその正面だけです。この図書館はかつては、アレクサンドリア図書館、ペルガモン図書館に次ぐ、ローマ帝国で3番目に大きな図書館だったそうです。今、残っている正面には、4体の女神像がはめ込まれています。4柱の女神は、ソフィア(知恵)、エピステーメー(知識)、エンノイア(思考)、アレテー(徳)で、皆、ギリシア語の普通名詞を神格化したものです。このような立派なものを息子が建てることが出来たからには、父親のケルススも有力者であることが推測されますが、ケルススはローマの元老院議員であり、ローマ帝国の最上の階級に属していたのでした。ちなみに当時の元老院の定数は600名です。




アレテー(徳)の像


 さて、この図書館に名前を付けられたケルススの生涯が、英語版のWikipediaに出ていたので、それをご紹介したいと思います。ケルススは紀元45年頃にエペソスかサルディスのいずれかで生まれました。紀元45年頃というと使徒パウロが伝道に活躍していた頃です。それにしてもこの頃の人物の経歴が詳しく分かるのは驚きです。それというのも、エペソス出土の碑文にケルススの経歴が詳しく書かれていたそうです。彼の父はギリシア系でローマ市民権所有者でした。また、その親族は何らかの公的な役職についていたそうです。
 ケルススの正式名は、ティベリウス・ユリウス・ケルスス・ポレマエアヌス、といいます。この頃のギリシア人はローマ的な名前を名乗っていたようです。


 ケルススの経歴は軍務から始まるようです。

 記録された最初期の彼の役職は第3軍団キレナイカの指揮官であり、それはローマ支配下のエジプトの守備隊の一部であった。


英語版Wikipediaの「ティベリウス・ユリウス・ケルスス・ポレマエアヌス」の項より

 キレナイカは今でいうとリビアです。エペソスかサルディスの生まれでも、古代ローマではこんな遠方に赴任することがままあったのでした。

 彼の人生で次の記録された事件は、ウェスパジアヌスとその息子ティトゥスによる、アエディリウス(按察官)経験者の間からの元老院への彼の指名であり、それは四皇帝の年の間にウェスパジアヌスを支持した個人へウェスパジアヌスが与えたことが知られている報酬であった。ケルススがウェスパジアヌスをどのように支持したのかは正確には分からない。当時のエジプト知事であるティベリウス・ユリウス・アレクサンドロスは、ウェスパジアヌスのために公的に宣言した最初の知事(69年7月1日)であった。第3軍団キレナイカのヴェテラン兵はユダヤ戦争に参加し、ケルススはそのようにしてウェスパシアヌスの知遇を得るようになった。理由はともかく、元老院への昇格はケルススにとって重要な社会的および政治的業績であった。


英語版Wikipediaの「ティベリウス・ユリウス・ケルスス・ポレマエアヌス」の項より

「四皇帝の年」というのは、皇帝ネロが反乱によって死んだのちのローマ帝国の混乱の年のことを言います。

 ネロの死でユリウス・クラウディウス王朝は滅び、反乱将軍ガルバが帝位を継いだ。他の貴族たちより人柄はましだったが、禿頭、肥満、関節炎に悩まされた。即位するとすぐ、ネロから受けた利益のすべてを国家に返上するよう命令した。だが新皇帝の最初のこの国務行為が命取りになった。ネロから利益を得たうちに親衛隊も含まれていたからだ。即位の三カ月後、親衛隊は、肩輿に乗って広場に出御した皇帝を襲撃、首と両腕と両唇を斬り落し、オトーを新帝に推戴する。(中略)
 この報を受けて、ゲルマニアに遠征していたアウルス・ヴィテリウスと、エジプト派遣軍の将ヴェスパジアヌスが反乱を起し、ローマ進軍を開始する。先に着いたヴィテリウスは、すでに自害していたオトーを埋葬したのち、皇帝に推戴された(中略)。イタリアに上陸したヴェスパジアヌスとの戦の準備を怠り(中略)ヴィテリウス軍は敗れ、敵はローマになだれ込んで殺戮をほしいままにした(後略)。


モンタネッリ著「ローマの歴史」藤沢道郎訳 より

 この混乱の時期にウェスパジアヌスを支持したことによりケルススは元老院議員に指名されたのでした。元老院議員は終身の身分なので、これで彼は大きな社会的上昇を成し遂げたことになります。
 次に彼は文官の役職に就きます。首都ローマの法務官(プラエトル)になったのでした。その後、小アジア方面の属州の役職を歴任し、その後、軍務に戻り、第4軍団スキュティカの指揮官に任命されています(紀元81~82年頃)。軍団の駐屯地は今のルーマニアセルビアあたりになります。その後ビテュニア・ポントス属州(今のトルコの北部)の総督になり、その後、首都ローマに戻り、軍財政の3名の長官のうちの一人に就任しています。その後、補充執政官(コンスル)を務めました。ここが彼のキャリアの頂点のようです。


 その後は、名誉職らしい職に就きます。1つは古代ローマの司祭の最も栄誉ある4つの団体のうちの1つであるクィデキムウィリ・サクリス・ファキウンディスに入団が許されたことで、もう一つは神殿やローマの公共の建物や広場の維持の監督職に就いたことです。この頃の皇帝はウェスパジアヌスの息子のドミティアヌスになっていました。彼は治世の末期に暴君と化し、元老院議員や他の有力者を告発しては死刑に処すようになってしまいました。そんな時期にケルススは政界を引退してエペソスに戻りました。すでに彼は50歳を過ぎていました。かつて支持したウェスバジアヌスの息子のこの有様を彼はどのような思いで見ていたことでしょうか?


 やがてドミティアヌスは暗殺されます。ドミティアヌス帝の治世の末期について、小説の記述ではありますが、それを引用してその有様を感じてみたいと思います。

わたしがドミティアヌスとローマとの死闘の最後のとどめの一撃を見守ったのは、このつつましい地位にあるときであった。皇帝は都での支持を失い、処刑につぐ処刑によってしか力を維持することができず、それも己が最後を早めたにすぎなかった。軍隊もみな彼の死を求めて結束をかためつつあった。(中略)
≪マケドニカ≫の軍営に到着して間もなくドミティアヌス暗殺の知らせがはいったが、この知らせにはだれひとり驚くものはなく、皆喜んだものだった。ただちにトラヤヌスネルウァの養嗣子として迎えられた。新帝は高齢であったから、彼の帝位は長くて幾月かというくらいのことであった。


ユルスナール作「ハドリアヌス帝の回想」多田智満子訳 より

 ドミティアヌスの死後、元老院議員であった老齢のネルワが皇帝に即位しましたが、彼には後継者がいなかったのでトラヤヌスを養子にして後継者にしました。その後2年でネルワが死去し、トラヤヌスが即位しました。トラヤヌスの治世になり政界が安定すると、ケルススは政界に復帰します。そして紀元105/106年にアシア属州の知事の任期を全うしました。彼の死亡年ははっきりしませんが、紀元117年以前に死亡したことが分かっています。紀元117年頃に彼の息子が上述の図書館を建設したのでした。


 以上でエペソスの物語を終えます。読んで下さり、ありがとうございます。