神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エペソス(6):ヘーラクレイトス(1)


「万物は流転する」という言葉で有名なヘーラクレイトスはエペソス出身の哲学者で、エペソスがペルシアに敗れ征服されたBC 546年頃、エペソスの初代の王アンドロクロスの子孫である王家に生まれました。ただ、その頃王家と言っても特別な政治的な権力はなく、ただ「王」という称号と若干の特権を持つだけのものでした。

たとえば競技場で最上等席を与えられたり、その持ち船に紫紅の舟印を掲げたり、女神デメテルの祭司職となったりすることができた。


山本光雄著「ギリシア ローマ 哲学者物語」より

ただし、それでもエペソスの支配的な家系の一つの出であったので、平民とは異なった境遇で育ちました。そのためか大変、尊大だったといいます。

この人は第六十九回オリンピック大会期(前504-501年)の頃に男盛りであった。彼は誰にもまして気位が高く、尊大な男であった。


ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」第9巻第1章「ヘラクレイトス」より

伝えられている数少ない彼の言動のうち、歴史的な事件に関係のありそうなものが一つあります。それは彼の友人のヘルモドロスという人がエペソスの民衆により追放され、そのことで彼がエペソス市民を激しく非難している言葉です。

彼はまた、自分の友人のヘルモドロスを国外追放にしたということで、エペソスの人たちを攻撃しているが、そのなかでは、次のように述べている。「エペソスの人間なんて、成年に達した者はすべて、首をくくって死んでしまったほうがいい。そして国家は、未成年の者たちの手にゆだねるべきだ。彼らは、ヘルモドロスという、自分たちのなかでもいちばん有用な人物を、『われわれのうちには、いちばん有用な人物なんか一人もいらない。誰かそんな人間がいるなら、どこかよその土地へ行って、ほかの人たちと暮らすことだ』と言って、追い出したのだから」と。


ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」第9巻第1章「ヘラクレイトス」より

ところで最初に引用した山本光雄著「ギリシア ローマ 哲学者物語」によれば、これは、BC 498~494年のイオーニアの反乱に関係があると言います。この説が正しいかどうか私には判断がつきませんが、上記のエペソス市民への非難の言葉を、この歴史的事件のものと位置付けると、ヘーラクレイトスの人生がおぼろげながら見えてくるような気がします。私は、この仮定に立って、ヘーラクレイトスの人生を以下のように想像してみました。


ヘーラクレイトスはエペソスの支配階層の家に生まれたのですから、長じては最初はエペソスの政治に関わっていたと思います。その頃、エペソスはペルシア帝国の支配下にありました。とはいえペルシアはイオーニアの諸都市にかなりの自治を許していました。当時のイオーニアの諸都市にはギリシア人の僭主がいて、ペルシアの後ろ盾を得ながら自分の都市を支配していました。エペソスもおそらくそうだったと推測します。


ところがその中の一人ミーレートスの僭主アリスタゴラスが個人的理由からペルシアへの反乱に踏み切ります。それはミーレートスがペルシアに提案して実現したナクソス島への遠征が失敗したからでした。アリスタゴラスは、自分の失敗によってペルシア王ダーレイオスから僭主の地位を取り上げられるのではないか心配になり、それが嵩じてペルシアに対して反乱を決意したのでした。ところで、このナクソス遠征には多くのイオーニア諸都市の僭主たちがその都市の兵を率いて参加していました。そしてこの時は遠征から戻っていてまだミーレートスの近くにいました。反乱を決意したアリスタゴラスは、手始めにこれらの僭主たちを逮捕することにします。

やはり離反することと決まり、一味の一人が船でミュウスへゆき、ナクソス遠征から帰ってその地に停泊中の船団を訪れ、乗り組んでいる指揮官たちをなんとかして捕えてみることになった。
 この目的のために、イアトラゴラスが派遣され、謀略によってミュラサの人でイバノリスの子オリアトス、テルメラの人でテュムネスの子ヒスティアイオス、エルクサンドロスの子コエス――これはダレイオスが恩賞としてミュティレネを与えた人物――、キュメの人でヘラクレイデスの子アリスタゴラスらその他大勢を捕えたが、こうしてアリスタゴラスは、ダレイオスに対抗する万般の策略をめぐらしつつ、いよいよ公然と反旗をひるがえしたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻5、37 から

ここにはエペソスの名前が出てきませんが、「その他大勢」の中にエペソスの僭主(名前は分かりませんが)いたかもしれません。さて、アリスタゴラスは次に、ミーレートス人が進んで自分の謀反に加担してくるように、本心は別ながら、名目上は、ミーレートスで僭主制を廃して民主制を敷くことを宣言しました。そして、イオーニアの他の町々についても民主制を確立すべく、さきほど捕えたイオーニアの町々の僭主を、それぞれの町に引き渡しました。この策動によって、元々アリスタゴラスの利己的な思惑で計画された反乱が、ギリシア人僭主を利用してイオーニアを支配するペルシアに対する、自由を求める民衆の戦い、という大義名分を得ることになったわけです。


さて、山本光雄著「ギリシア ローマ 哲学者物語」では、ヘーラクレイトスの友人のヘルモドロスは僭主に協力していた人と想像しています。それがこの騒動で僭主制が転覆され民主制になったことで国外追放になったというのです。


ヘーラクレイトスは以前から民主制について疑問に思っていましたが、この事件で民主制に対する嫌悪は決定的になりました。彼はこう言います。

彼らはどういう心なのだ。またどういう気なのだ。町の歌うたいの言うことを信じ、群衆から教えてもらうことを求めている。大多数はくだらない連中であって、すぐれた者は少数だということを知らないのだ。


山本光雄著「ギリシア ローマ 哲学者物語」より

この事件を機にヘーラクレイトスは政治から身を引きます。政治に関心がなくなってしまったのです。また自分が受け継いでいた「王」の称号を自分の弟に譲ります。賢者といわれる人々のほとんどを軽蔑していたヘーラクレイトスが称賛していた数少ない人の中にプリエーネーのピアスという人がいましたが、その人の金言というのが「たいていの人間は劣悪である」というものでした。たぶん、この時のヘーラクレイトスの思いも似たようなものだったのでしょう。

さて、このピアスのことは(中略)気むずかしいヘラクレイトスも次のように語って、彼を最大限に称賛している。「プリエネには、テウタメノスの子ピアスがいた。彼は他の者どもよりもずっと語るに足る人物だった。」(中略)
「たいていの人間は劣悪である」とは、彼の金言である。


ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」第1巻第5章「ピアス」より

その後、民主制を確立した民主派の指導者たちがヘーラクレイトスに法律の制定を依頼してきますが、それを以下のように言って断ります。

エペソスの人たちから法律を制定してくれと頼まれたときにも、その国はすでに悪しき国制の下におかれてしまっているからという理由で、彼はその要請を拒否したのだった。


ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」第9巻第1章「ヘラクレイトス」より

そして、万物の奥にある理法を求める研究の生活に入ったのでした。彼の求める智とは次のようなものでした。

「智はただ一つ。すべてのものを通してすべてのものを操る(万有の理法の)意図を知ることなのだ」


ディオゲネス・ラエルティオス著「ギリシア哲学者列伝」第9巻第1章「ヘラクレイトス」より

長くなりましたので、まず、ここで一区切りつけてアップします。