神話と歴史の間のエーゲ海

古代ギリシアの、神話から歴史に移るあたりの話を書きました。

エペソス(4):クロイソス

 キンメリア人が去ってのち、洪水によってアルテミス神殿は倒壊しました。その後しばらくの間、神殿を再建出来ないでいました。さて、キンメリア人を小アジアから駆逐したのはリュディア王アリュアッテスでしたが、その次に王位に登ったクロイソスは、BC560年頃にエペソスを征服してしまいます。 

アリュアッテスの死後、その子クロイソスが三十五歳で王位を継いだ。クロイソスが攻撃の戈(ほこ)を向けた最初のギリシア都市はエペソスである。この時クロイソスによって包囲攻撃をうけたエペソス人は、アルテミスの神殿から城壁まで縄を張って、町全体をアルテミス女神に奉納したということにした。当時攻囲されていた旧城下と神殿の距離は七スタディオンあった。クロイソスはエペソスに先ず手を染めたのであったが、ついでイオニア、アイオリスの全都市にさまざまな言い掛かりをつけて攻撃した。


ヘロドトス著 歴史 巻1、26 から

 上で「アルテミスの神殿から城壁まで」とありますが、この頃神殿は倒壊したままだったと思います。ヘーロドトスはそのことを知らなかったのかもしれません。さて、「アルテミスの神殿から城壁まで縄を張って、町全体をアルテミス女神に奉納したということにした」というのは、町自体が奉納品になった、ということで、これに手を付ける者は神罰を受ける、とクロイソスが思ってくれることを期待したものです。このエペソス人の行為を見てクロイソスがどう反応したのかを、ヘーロドトスは書いていません。しかし、エペソスは占領されたのですから、おそらくクロイソスは何とも思わなかったのでしょう。


 だからといってクロイソスが、エペソス人の心の拠り所であるアルテミス神殿をないがしろにしていたわけではありません。征服後、クロイソスは神殿再建のための資金を提供しました。

BC560年頃、エペソスは、クロイソス王治下のリュディア人によって征服された。クロイソスは厳しい支配者であっても居住者を尊敬して扱い、アルテミス神殿の再建の主な貢献者にさえなった。彼の署名は、神殿の柱の一つの土台で見つけられた(現在は、大英博物館に展示されている)。 クロイソスは、エペソス周辺のさまざまな集落の集団をアルテミス神殿の近くに再編成し(シュノイキスモス)、都市を拡大させた。


英語版Wikipediaの「エペソス」より

 この時の建築家の名前も残っているので、紹介します。当時のアルテミス神殿再建の設計に携わったのはクレータ島の建築家のケルシプロンと彼の息子メタゲネスでした。この時に再建されたアルテミス神殿は非常に壮麗なものであったと伝えられています。

(上、アルテミス神殿の復元模型。ただし、これは、さらにのちのBC 4世紀の再建に基づくものと思われる。)


 さて、クロイソスはその富の莫大さで有名でした。クロイソスがギリシアデルポイアポローン神殿に奉納した宝物についてはミーレートス(11):ディデュマに書きました。クロイソスは非常に高価な宝物を奉納しています。クロイソスはミーレートスのディデュマのアポローン神殿にもデルポイに奉納した宝物に匹敵するほど高価な宝物を奉納しています。ここからもクロイソスの富の豊かさが分かると思います。


 そのクロイソスの繁栄ですが、それはそれほど長く続きませんでした。
 クロイソスのリュディア王国の東隣には、今のイラク、イランの領域にほぼあたるような大きな領土を持つメディア王国がありました。メディア王国との政略結婚によってクロイソスは、当時のメディア王アステュアゲスの義兄弟に当っていました。このメディア王国の東部になるイラン高原には、ペルシア人がいました。彼らは当時メディア王国の支配下にありましたが、彼らの中にキューロスという指導者が現れ、ペルシア人たちを糾合し、メディアに対して反乱を起ました。そして、とうとうメディア王国を滅ぼしてしまったのです。こういう状況に直面したクロイソスは、義兄弟の敵討ちという名目を掲げ、キューロス率いるペルシアの領土に攻め込みました。


 一方、ペルシアのキューロス王はイオーニアのギリシア都市に使者を送って、クロイソスに対して反乱するように促しました。その中にはエペソスも含まれていました。しかしエペソスをはじめとするイオーニアの諸都市は、クロイソスが勝つと予想してリュディアに対して反乱を起しませんでした。


 ところがペルシアはリュディアに大勝し、クロイソスを捕虜にしていまいます。BC546年、ペルシア軍はリュディア王国の首都サルディスの城壁を包囲し、14日間の籠城の末、ついにサルディスを占領したのでした。リュディアと一緒にペルシアと戦っていたイオーニアの諸都市にとっては大変なことになりました。その状況をヘーロドトスは以下のように伝えます。

イオニア人とアイオリス人は、リュディアがペルシアに征服されるとすぐに、使いをサルディスのキュロスの許へ送った。クロイソスに隷属していた時と同じ条件でキュロスにも従いたいと思ったからである。キュロスは彼らの申し出をきいてから、こんな寓話を話してきかせた。――ひとりの笛吹きが海中の魚を見て、笛を吹けば陸に上ってくるかと思って笛を吹いた。ところが当が外れたので、投網をもちだし沢山の魚を捕えて陸に曳き上げたが、魚がバタバタはねまわっているのを見てこういった。「おい踊るのは止めないか。お前たちは俺が笛を吹いたのに、出てきて踊ろうともしなかったくせに。」
 キュロスがイオニア人とアイオリス人にこんな話を聞かせたのは、以前キュロスがイオニア人に使者を送って、クロイソスに叛いてくれと頼んだときにはいうことを聞かず、ことが終った今になってキュロスに従う態度に出たからであった。
 キュロスは怒りに駆られて彼らにこういったのであったが、このことはイオニアの町々に報告され、イオニア人はこれを聞くと、それぞれ町のまわりに城壁を築き、ミレトス以外の全イオニアの住民がパンイオニオンに集合した。


ヘロドトス著「歴史」巻1、141 から

 上の引用に出てくるパンイオニオンというのは神殿の名前で、その名前の意味からすると「全イオーニア人の(神殿)」という意味です。それはともかく、パンイオニオンでの会議の結果は実りあるものではありませんでした。そしてイオーニアの各都市は個別にペルシアと戦わざるを得ませんでした。エペソスは他のイオーニア都市同様、ペルシアによって征服されたのでした。その後、エペソスはペルシアから派遣された総督(サトラップ)の支配下におかれました。


左、ペルシアに捕えられ火刑にされるクロイソス。薪の上に座らされている。右の人間が薪に火をつけようとしている。